『琥珀色の遺言』(別館)

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2008.12.10 「Change the world ~ Letters Side-B ~」あとがき
 
と題してみたものの、実はあとがきで書くことが殆ど見つからないのが実際のところで。

タイトルの通り、本作は真名さんのところから二人の登場人物をお借りして書いた「Letters」のウラ話なのですが。
「Letters」が「志村正晴の視点から見た向坂永一の物語」であったのに対して、「Change the world」は「Letters」では狂言回しの位置にあった榊原真奈を視点人物に据えて「真奈の視点による真奈自身の物語」となっております。もちろん、前半部分(第17章まで)は文字通りの「side-B」なので、向坂永一の物語でもあるのですが。

実際のところ、「Letters」での真奈は本編である「砕ける月」や「Left Alone」に比べるとずいぶんと違って見えるというか(まあ、それは読者さまには概ね好評だったようですが)行動原理にいまいち曖昧なところがあって、どうも物語の都合に合わせた感が否めなかったわけです。

もちろん、書いているわたし自身は――ぼんやりとですが――真奈が何を思って行動していて、どういう意図で話をしているのかをバックグラウンドストーリーとして組み立てていたのですが、それを志村視点で描くのは無理だったのです。
しかし、「Letters」あとがきでも書いた通り、最初から真奈視点というのは物語の構造上あり得ないわけで、あの時点では「大量の処理できないウラ話」を抱えたままの「side-A」を書かざるを得ませんでした。
そういう意味では本作は「Letters」を補完するものと言えるかもしれません。その割にはずいぶんと話が広がってしまいましたが。(笑)

ちなみに本作執筆においては「えいみす2型」が重篤な発症を見せたおかげで「side-A」の軽く2倍、原稿用紙に換算して375枚(!)というもうちょっとで長編というところまでいってしまいました。
これは単純にプロットそのものが長い(「Letters」の分にプラスして後半の夜の天神編が付加されてますので)というのもありますが、秋月編を除けば登場人物がほとんど徒歩移動をしていることもあって、街の描写に相当な文章を割いたせいでもあります。とりわけ、後半の天神編は実際の移動距離と比較してもかなりの量を費やしてます。(これについてはそのうち、アメブロのほうで画像や地図を使った補完記事を書く予定です)

それともう一つ、この物語が長くなったのはこれまで本編で語ってこなかったエピソードや、「砕ける月」と「Left Alone」の間の変化について、2つの物語を繋ぐような展開を織り交ぜたことも理由です。特に父親の事件後の真奈の境遇などは、彼女の人格や非行少女化への重要なポイントであるにもかかわらず「砕ける月」の冒頭と「ブラジリアン・ハイ・キック」での亮太の伝聞でしか触れていませんでしたから。同様に父親の事件後にその現場を訪れることの意味など、本来であればもっと早くどこかに挿入しておくべきエピソードもずっとほったらかしにしていたわけですが、今回ようやく描くことが出来ています。

本作では他にも多くのエピソードが挟み込まれていて、とりわけ本作のラストの真名と永一のやり取りは「Left Alone」の解釈を大きく変えてしまうかもしれないなと思っています。
というのも、真奈が自分の気持ちを「村上への恋心」と認めるのは本編で由真がライバルに名乗りを上げてからの話なので、従来の解釈であればこの段階では真奈は本当に「何とも思ってない」ことになります。ところが、本作の解釈を加えると「あるいはそうかもしれない」程度には村上をそういう対象だと見ていたことになるのですよね。
この辺は後付け設定の多い作風そのものの問題かもしれません。

とにかく、おそらくシリーズ中最大の問題作(笑)である本作ですが、わたし自身はこれまで書いたことのない恋愛小説という位置づけでなかなか楽しんで書けました。もちろん、それと同じだけの産みの苦しみはあったわけですが。
読んでくださった方にも、同じように楽しんで戴けたのでしたら幸いです。


そうそう、最後になりましたがこれは書いておかなくてはならないでしょう。

「志村、扱いが悪くてゴメン!!」
 
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2008.12.10 「Change the world」第34章
 
 ――ねぇ、向坂くんって好きな人とかおると?
 
 午前様どころかほぼ朝帰りと言っていい時間。向坂が泊まるホテルの前での別れの場面でアタシはそんなことを訊いた。
 言葉を選ぶ素振りを見せたのは、彼なりに場の空気を読もうとしたからだろう。嘘でもいいから好きなのはアタシと言うべきと考えたのかもしれない。
 そう言わなかったのは、アタシがそんな見え透いた社交辞令を求めていないのを感じたからだと思う。代わりに向坂は「……気になってる子ならいなくもないけど」と彼らしい物言いで白状した。
 卒業式の後に彼のところへ来て告白したのは、何と、気になっているその子だったのだそうだ。
 
「……へぇ、寺田さんっていうと。下の名前は?」
「亜紀。二年のときのクラスメイトでね。ほら、話しただろ。俺が文化祭の出し物で劇の主役をやるところだったって話。あれを仕切ったのが彼女なんだ」
「演出家と主演男優の仲ってわけ?」
「怪我で舞台に穴を空けた主演男優だけどね」
 向坂が小さく笑う。ちなみに劇は「王子と乞食」で、向坂の代わりに舞台に立ったのは志村だったというから驚く。
 どんな子なのか教えろという質問に向坂が答えたところによると、寺田亜紀は小柄でちょっとおっとりした感じの、平たく言うとアタシとは正反対のタイプらしい。
「やっぱり、男はそういう可愛かタイプのほうがいいとやねぇ」
 わざとらしくため息をついてやる。
「そういうわけじゃないよ」
「口ではどがんでも言えるやん。結局、そういうタイプを選んどるとやし」
「だから」
「ふーん、どうせアタシみたいな可愛げのない大女はストライクやないとよねぇ」
「えーっと、何て言えばいいのかな……」
 向坂はそこから先を言いよどんだ。本当に困っているようだったので、そろそろ許してやることにした。
「冗談って。――よかったね、向坂くん」
 その言葉は本心だった。
「……真奈ちゃんに先に言われたけどさ」
「ん?」
「本当はこの電話は、それを報告するためのものだったんだ。それも約束だっただろ?」
「そうやったっけ?」
 今度は確信犯でとぼけた。その約束はしっかり覚えている。
 ――もし、彼女ができたら最初にアタシに報告して。
 おかしな話だけれど一夜を共にしたことでアタシの中に生まれたのは、向坂を何百キロも離れた遠い地にいるもう一人の自分のように思う不思議な感覚だった。それはアタシにジェラシーではなく、彼の身に訪れた小さな幸せを素直に喜ぶ気持ちを持たせてくれた。性別を越えた親友というのがもし成立するのなら、アタシと彼がそうなのかもしれない。
「大事にしてあげんといけんよ?」
「……ああ。分かってる」
「それと、もし、これからアタシのことが話に出ることがあったとしても、アタシを名前で呼んだらダメ。榊原って苗字で呼ぶこと」
「どうして?」
「当たり前やろうもん。付き合い始めたばっかりの彼氏が他の女の子を名前にちゃん付けで呼んだら、その子が気にするやんね」
 何でそんなことが分からんかな、この朴念仁は。
「とにかく約束」
「……分かった、そうする」
「そうして。――じゃあね、彼女とお幸せに」
 笑いながらそう言って電話を切った。
 
 別れ際に向坂に言われたことが脳裏に甦る。
 
 ――真奈ちゃんこそ、好きな人がいるんじゃないのか?
 
 最初はアタシへの小さな反論かと思った。けれど、向坂の表情にはそんな色は見えなかった。そして、彼がアタシに何を言わせたいのかは見え見えだった。
 
 ――言うたろ。あいつはアタシにとってそがん相手やなかって。
 
 アタシが村上恭吾という男に抱いているのは今よりまだ幼かった日の憧れ、初めての失恋――そんな甘苦しい思い出ばかりではない。
 それは後悔と申し訳なさ。そして何より、アタシとアタシの父親を暖かく見守ってきた男を信じられなかった自分への強烈な自己嫌悪だった。そんなアタシが、仮に彼のことを好きだと思い続けていたとして、どうしてそれを口にできるだろう。

 ――でも、大切な人なんだろう?

 ――そうやけど。

 向坂はアタシに掛ける言葉を見つけられなかった代わりに、そっとアタシを抱きしめた。
 
 ――だったら、約束して欲しいんだ。どんなことがあっても諦めないって。真奈ちゃんの気持ちは簡単には届かないかもしれないけど、それでも手を伸ばし続けることを諦めないって。
 
 彼が言わんとすることの意味がよく分からなかった。
 
 ――どうして、向坂くんがそがんこと思うと?
 
 向坂はアタシを抱く腕に少しだけ力をこめた。
 
 ――届かなかったから。
 
 ――えっ?
 
 ――俺の手は正春に届かなかったから。そして、もう二度と届くことはないから。でも、真奈ちゃんの手は大切な人に届くところにある。……だから、諦めて欲しくない。
 
 村上への気持ちが恋愛感情へ変わっていくかどうかはアタシ自身にもよく分からない。それでも、そう思えるときが来たら自分に嘘はつかない。それだったら約束する――アタシはそう答えた。
 向坂は返事の代わりに最後にもう一度、アタシを強く抱き寄せた。
 
 エントランス前の車寄せにパールホワイトのフェアレディZが滑り込んできた。ハザードを灯して村上が降りてくる。
 この後の用事は中学時代の友人の結婚式だそうで、アタシを送った後は直行できるように村上はスーツに着替えている。韓流スターのような甘いマスクと理知的な雰囲気を強調するような眼鏡、普段の堅苦しさとは正反対のジャンフランコ・フェレのタイトなシルエットのグレイのスリー・ピースとボルドーのネクタイ。結婚式なのにシルバーじゃなくていいのかと訊いたら「そんな席じゃない」と一蹴された。まあ、別にどうだっていいけど。
 腹立たしい話だけど、まるでドラマのワンシーンのようにその立ち居振る舞いは際立っている。歩いていた女性たちの大半が思わずそこで足を止める。大げさではなく本当にそうなのだから呆れるしかない。
 村上は自分に向けられる視線などまるで気にせず、テキパキとZのトランクに買い物袋を収めていく。
「誰が食うんだ、こんなに」
 呆れ顔は無視。全員女の子だからそんなに用意しなくても、とは祖母も言ってたけど、男子の目のないところでの女子高生の食欲を馬鹿にしてはいけない。
 トランクの蓋をちょっと乱暴に閉めて運転席に回る村上を待たせて、目についた自動販売機に駆け寄った。ブラック・コーヒーを二つ買う。
 助手席のシートに身体を滑り込ませて、ドリンクホルダーに買ってきた缶を置いた。
「忘れとった」
「……何を?」
「約束しとったやん。手紙が外の祠から見つかったらコーヒー奢るって」
 村上の怪訝そうな表情はすぐに納得したものに変わった。
「俺も忘れてた。なんだ、別にどうでもよかったのに」
「そういうわけにはいかんよ。あんた、後になってから嫌味ったらしかこと言うけんね」
「俺はどんな人間だと思われてるんだ?」
 返事の代わりに鼻を鳴らしてやる。村上は黙ってコーヒーのプルタブを起こした。
 Zは車寄せを離れて駐車場を周回する。とにかく敷地が広いので出口までは結構距離があるし、おまけに誘導員がどう考えても無駄なルートを走らせてくれるので国道に出るのには時間が掛かった。
「……どうだったんだ?」
 村上が言った。こっちを向く気配はない。この男はいつもそうだ。
「何が?」
「秋月での一件さ。上手くいったのか?」
 何と答えればいいのか、ちょっとだけ迷った。あれが上手くいった結果なのか、今でも自信を持てていないからだ。
 けれど、少なくとも悪い結果ではなかったはずだ。
「うん、まあまあってとこかな」
「そうか……。それならいい」
 村上の一言はアタシに言ったというより、自分が納得するための呟きに聞こえた。
「――ねえ、この車にクラプトンのCD載っとる? <アンプラグド>以外で」
「載せてる。<ピルグリム>と<クラプトン・クロニクルズ>」
「ベスト盤のほう」
 村上は黙ってダッシュボードを指差した。蓋を開けるとこの前とは打って変わってロック関係のアルバムが詰まっていた。してみるとあのときのセレクションはやはり嫌がらせだったのか。
 まあ、いい。その中から<クラプトン・クロニクルズ>を引っ張りだした。CDをコンポのスリットに射し込む。スキップボタンで二曲目の<チェンジ・ザ・ワールド>を選んだ。

”Baby if I could change the world ”

 もし、アタシにそんな力があったとしても、向坂の心を照らして氷を溶かす役目はアタシのものではない。それは少しだけ切なかった。
 あの朝、ホテルに入っていく向坂を呼び止めたアタシは、彼のところへ駆け寄って頬にキスした。

 ――幸運のおまじないやけんね。

 ほんの少し前まで情熱的に肌を合わせておきながら、最後のキスが唇でないのは逆に面映かった。でも、アタシと向坂永一のお別れの挨拶にはそのほうがピッタリだったはずだ。アタシは今でもそう思っている。

<了>
 

2008.12.10 「Change the world」第33章
 
「――なぁ、真奈。ひとつ訊いていいか?」
「なんね」
「どうして俺は、せっかくの非番に呼ばれてもいないパーティの買い出しなんかに付き合わなきゃならないんだ?」
 村上が仏頂面でアタシを見る。もっとも、この男はアタシと過ごす時間の半分以上はこんな感じなので、今更気にかけるほどのこともない。
 三月ももうすぐ終わり。というより、三年間の高校生活も明日で終わりだ。
 卒業式の後は例年通りに講堂で謝恩会があって、その後は馴染みのある先生を囲んでの二次会だったり、所属していた部活主催の追い出しコンパがあったり、それぞれにイベントが催される。
 アタシはというと、去年に引き続いて謝恩会でタキシードを着てダンスの男役を務めた後は特に予定がない。所属していた空手部には幹事向きの人材がいなくて何も企画されていないし、助っ人を務めたところからのお誘いはあちこちからあるけど、あっちに出てこっちに出ないと角が立つので全て遠慮させてもらっている。
 というようなことを由真と三人組の前で口を滑らせたのが間違いだった。
 ――やったら、みんなでパーティしよう!! もちろん、料理は真奈の担当で!!
 何が「やったら」で何が「もちろん」なのかまったく見当がつかないが、とにかく、アタシの知らないところで話は決まってしまった。場所は平尾浄水のアタシの家、参加者はアタシと由真、恵と慶子、千明のいつもの三人組、空手部の部長にして生徒会長の美幸、その生徒会仲間が三人という結構な大所帯。
 そういうわけで前日の今日、アタシは買い出しのために糟屋郡にあるショッピングモールまで来ているのだった。村上を運転手兼荷物持ちとして。
「別によかろうもん。休みっていうたって、どうせ暇なんやし」
「暇じゃない。おまえに呼び出されなかったら、球を撞きにいくつもりだったんだ」
「ビリヤード? 誰かと約束しとったと?」
「……いや、一人で」
「あんた、何でそがん暗いと?」
「大きなお世話だ」
 憮然とした横顔に更なる追い討ちをかける。
「しょうがないやん。あんたがバンディット壊したけん、アタシ、足がないっちゃもん」
 村上の頬が引き攣る。
「……壊したんじゃない。壊れたんだ」
「何が違うとねって。どーせ調子に乗って、力いっぱいアクセル吹かしたっちゃろうもん」
「おまえと一緒にするな。初代のバンディットはオーバーレブさせすぎてエンジンをオシャカにしたくせに。250のバイクをエンジンブローさせた奴なんか初めて見たぞ」
 ちくしょう、古い話を。
「ふん。とにかく、あんたのせいで身動きとれんとやけん、素直にアッシーくんしとけばいいと」
「おまえ、それ、死語だぞ」
「せからしか」
 アタシの愛機、スズキ・バンディット250V(ちなみに二代目)はアタシがフェアレディZを借りる代わりに村上に貸し出されたあの日、持病の不整脈が悪化して心筋梗塞を起こし、修理工場に担ぎ込まれた。
 エンジンを降ろして調べてみたところ、幸いにもエンジンブロックには損傷がなかったので部品さえ揃えば修理は可能との診断だった。
 しかし、古いバイクなのでメーカーサポートはとっくに終わっているし、パーツ取りのために状態の良いエンジンを捜すのは極めて難しいのが現実だ。大学の入学祝い(無事に受かった)に車を買って貰えることもあって、三年付き合った愛機は泣く泣く廃車することとなった。
 ちなみにアタシが秋月から電話をかけたときには、村上は動かなくなった一四〇キロ余りの鉄の塊と一緒に呆然と志賀島から見える玄界灘を眺めていたのだという。脳裏に浮かんだその情景があまりにも哀れだったので、「他に行くところはないのか?」という疑問を投げつけるのは差し控えた。
 ――絶対、俺のせいじゃないと思うんだがな。
 村上はあれから、アタシと顔を合わせるたびに不服そうにそう呟いているけど、責任を否定する材料もないのでいつの間にか尻窄みになってしまう。
 まあ、本当はエンジンの傷みそのものは経年劣化なので、村上に一〇〇パーセントの非を負わせるのは酷な話ではある。ただ、この男を黙らせられるチャンスなど滅多にないので意地悪く被害者面をしているわけだ。
 ショッピング・カートに山ほど食材とお菓子を買い込んで、ついでに飲み物もペットボトル入りのジュースを何本か買い込んだ。現職の警官の前でアルコール類を買うわけにはいかないので、それだけは後で近所に買いに行くことにしよう。それに、いざとなれば由真の部屋の備蓄を出させるという奥の手もある。
「卒業記念でホームパーティか。最近の女子高生は豪勢なもんだな」
「いいやん、別に。あ、来たいとならあんたも来てよかよ。女子高生に囲まれてハーレム気分が味わえるかもね」
「冗談はよせ。何処の世界に囲まれたが最後、ケツの毛までむしられるハーレムがあるんだ」
 ちぇっ、たかるつもりなのはお見通しか。
「それ以前に、俺がおまえの家に上がれるわけないだろう」
「去年の夏に来たときは上がったやん」
「あれは仕事だ」
 祖父母にとって村上は娘婿であるアタシの父親を告発した男だ。
 当然、好意的な目が向けられるはずもない。特に祖母は一時期、決して珍しくないその苗字を見ることさえ毛嫌いしていて、村上がある事件に関してアタシに事情を訊くために平尾浄水を訪れたときには、追い返しこそしなかったものの露骨に顔を強張らせていた。
 告発に至った事情を知った今は反応はかなり軟らかいものになった。
 けれど、人間というのは一度抱いた印象をそう簡単に変えられたりしない。年齢を重ねてしまった祖父母は尚のことだ。毛嫌いは気まずさに変わっただけで好意的な目が向けられないのは今も変わらない。村上もそれを察しているから滅多にウチに来ないし、来ても塀の外で突っ立ってアタシや由真が出てくるのを待っているだけだ。
「軽ーい感じで「こんちはー!!」とか言うたら、案外すんなりいくかもしれんよ?」
「アホか」
 村上は心底うんざりしたような目でアタシを見た。
「くだらないこと言ってないで、早いとこ済ませてくれ。俺は夕方から用事があるんだ」
「あー、そうですか」
 調子に乗ってわざと時間をかけてやりたくなるけど、アタシも明日に備えていろいろと準備があるのでさっさと買い物を済ませた。
 村上が車を回してくる間、正面エントランスの脇のスペースにある椅子に座っていたら携帯電話が鳴った。登録されていない番号からで誰からかは表示されていない。プププッという音がしたので同じソフトバンクだけど心当たりのない番号だ。
 まあ、いい。悪戯なら切れば済むことだ。
「もしもし?」
「ああ、真奈ちゃん。俺、向坂だけど」
「向坂くん!?」
 思わず声が裏返りそうになる。
「ど、どうしたと?」
「……いや、携帯電話を買ったから。約束しただろ、買ったらすぐに番号を教えるって」
「そうやったっけ?」
 確かにそんな約束をしたような記憶がある。
 それにしても律儀な男だ。そう言えば、博多駅に見送りに行ったときにも「東京に着いたら電話してよ!!」と言っておいたら東京駅の公衆電話から掛かってきた。
 あれっきりと思っていたら実は二回ほど電話が掛かってきていて、アタシたちは話をしていた。
 特に中身のある話ではない。どうやら長電話が苦手なところまで似ているようで、適当な近況報告をしたり、志村の今さらな大学受験(恐ろしいことに何処かに潜り込んだらしい)の話をしたり、何の興味が湧いたのか知らないけど空手の話をしたり――そんな他愛もない内容ばかりだ。
 あの夜に関することは、お互いに億尾にも出さなかった。
「ねえ、向坂くんとこ、今日が卒業式やなかった?」
 向坂は「ん?」と訊き返した。
「……そうだけど。何で真奈ちゃんがそれを?」
「志村のメール。アタシんとこの一日前やったけん、覚えとうっちゃけど」
 あの男からはちょくちょくメールがくる。最初はダラダラと長い文章だったけど、アタシの返事が短いのに合わせるようにどんどん短くなってきていて、最近はどんなに長くても三行以上のものは来ない。
「何か、良かことあった?」
「えっ?」
 うろたえたように声が裏返った。
「いいことって……何が?」
「ううん、特に何てわけやないけど。女の子から「第二ボタン下さい!!」とか言われんかったとかなーって思うたっちゃけど」
 ――そんなわけないだろ。
 想像していたのはそんな答えだ。しかし、向坂の返事は違っていた。
「実は、そうなんだ」
「エーッ!?」
 今度はアタシの声が裏返る番だった。
 

2008.12.10 「Change the world」第32章
 
 ベッドに横になって、真っ白なクロス貼りの天井を見上げる。
 豪華だけど薄っぺらな内装は如何にもそのための部屋という感じだった。部屋のど真ん中を占領しているキングサイズのベッド、アンティークっぽい造りのソファとテーブル、クリーム色の遮光カーテン。壁のあちらこちらに架けられている鏡にシーツに覆われた自分が映っていると思うと何だか恥ずかしい。
 暖房がうっすらと効いた室内は火照った身体には少し暑かった。枕元に手を伸ばしてエアコンのスイッチを切る。一人なら間違いなくシーツを蹴飛ばしているところだけど、何も身に着けていないのにそんなはしたない真似はできない。
 アタシたちは今泉にあるラブホテルにいた。
 西通りを逆戻りして国体道路を渡り、狭苦しい路地を抜けると今泉だ。南天神というのは警固と大名、今泉を指すのだけれどその中で一番南側になる。大名と同じく古びた建物と真新しいマンションが入り混じるように建つ半分商業地、半分住宅地といったところだ。ど真ん中にある今泉公園の周りのビルにはカフェや居酒屋といった店がチラホラ見える。
 しかし、今泉のもう一つの顔はラブホテル街だ。何せ公園のど真ん前のファミリーマートの二階から上がホテルになっているし、周囲にも多くのホテルが軒を連ねている。
 今泉を選んだのは単純に近かったからだ。
 他に天神周辺のホテル街といえば春吉橋の袂、屋台の通りがあるところの対岸と博多湾に突き出した須崎埠頭ということになる。しかし、どちらも歩いていける距離ではなかったし、この時間にカップルがタクシーを拾って春吉、または須崎埠頭へやってくれと言うのは運転手に向かって「今からセックスしに行きます」と告げているのに等しい。それはアタシの乙女心が許さなかった。まあ、自分から向坂をホテルに誘っておいて乙女心もへったくれもないもんだが。
 それでも、さすがに一緒にお風呂には入れなくて、別々にシャワーを浴びてベッドに入った。お互いに気を遣い合うような一回目が終わって、ほんの少しの休憩を挟んで二回目をした。続けざまだったことに少し驚いたけど、どんなに諦めきったジジくさいことを言っていても十九歳の男子なわけで、驚くには値しないのかもしれなかった。上手なのかどうかは、前の彼氏しか知らないアタシにはよく分からない。
 ――それにしても、まさか、こんなことになろうとは。
 隣に向坂がいないのをいいことに盛大にため息をついてみる。
 客観的に見れば、アタシがしていることは昨日知り合ったばかりの行きずりの男との一夜のアヴァンチュールだ。積み重ねた過去もなければこれからの未来もない。本当にただ、この夜の感情に任せて肌を合わせたにすぎない。
 他人が言うほど男嫌いでもなければ性的なことに潔癖なわけでもないけど、自分にこんなことができるとは夢にも思わなかった。
「どうかしたのかい?」
 向坂が戻ってきた。
「何が?」
「いや、何だか笑ってたように見えたから」
「向坂くんの格好見て、可笑しかったけんやろ」
「ひどいな。ま、自分でも似合わないなって思うけど」
 トイレに行くだけにわざわざ服を着るのは面倒だ。だから、向坂は備え付けのバスローブを羽織っていた。それがほっそりした体格とはかなりのミスマッチなのだ。まあ、バスローブを上手に着こなせる人間を石田純一以外にアタシは知らないけど。
 隣に横たわるかどうか迷って、向坂はベッドの縁に腰を下ろした。アタシからは彼の背中しか見えない。
 その肩が小さく上下した。笑ったのだと気づくのには少し時間がかかった。
「どうしたと?」
「いや――まさか、俺と真奈ちゃんがこんなことになってるなんて、志村は想像もしてないだろうなって思って」
「そうやね」
 人となりを知らないアタシはともかく、向坂がこういうことをするのは志村には意外なことなのだろう。由真はアタシの行動を想像くらいしているかもしれないが。
「志村にバレたら、メチャクチャ冷やかされるやろうね」
 向坂は振り返って顔をしかめた。
「その程度で済めばいいけど、多分、ぶん殴られるだろうね。てめぇ、抜け駆けしやがってって」
「どうして?」
「あれっ、気づいてなかったのか。真奈ちゃんって志村のタイプなんだよ」
「アタシが!?」
 思わず上半身を起こす。もちろん、シーツの胸元はしっかり押さえて。
「志村が言うたと?」
「いいや。でも、見てれば分かるさ。あいつは同級生とか、まあ、一つ二つ年上くらいの女の子にはまったく興味を示さないのに、真奈ちゃんだけはジーっと見つめてたからね。ははぁ、こりゃそうなんだなって」
「なんかフクザツ」
 しかし、そうであれば志村のアタシに対する微妙な態度も合点がいく。なんだかんだで邪険にしたことに一抹の後悔を感じたけど、志村だって最後はアタシをほっぽりだして由真一辺倒だったのだから文句を言われる筋合いではない。
「人のことはよかけど、向坂くんはどうなん?」
「真奈ちゃんのこと?」
 コクリと頷いてみせる。向坂はちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もちろんタイプだよ。ストライクゾーンのど真ん中」
「うっわ、ウソくさっ」
「そんなことないさ。本当だよ」
「信じられんよ。向坂くん、嘘つきやもん」
「……俺が何の嘘を?」
 ポカンとした顔。
「いいと。とにかく、嘘つきなんよ」
「訳が分からないな」
 そうだろう。おそらく、無意識に口にしたことだろうから。
 ――好きだよ。
 行為の最中に向坂はアタシの耳元でそう囁いた。
 けれど、それはアタシが同じ言葉を口走ったことへの返事でしかなかった。考えてみれば当たり前のことだ。彼にとって今、この場にいることすら予想外の出来事であり、当惑を隠せないことなのだから。アタシが彼に抱いているのと同じ気持ちを彼が抱いているはずはなかった。
 それが分かっていて、何故、アタシは彼に抱かれたのか。
 おそらく、他に方法を思いつかなかったからだ。どれだけ言葉を尽くしたところでアタシの中に向坂の痕跡を刻むことはできなかった。同じように言葉だけで彼の記憶にアタシの存在を残すことはできないだろう。
 もちろん、今夜のことだっていつまでも記憶に留まるとは限らない。けれど、少なくともアタシは向坂永一という男の存在を実感することができた。それに彼の言葉を信じるなら、アタシは彼の最初の女性なのだ。それで充分だった。
 
「三月だっていうのに冷えるね」
 エアコンを切ったせいではないだろうけど、向坂は寒そうに小さく肩を震わせた。
「横に来んね」
「ああ」
 向坂がシーツに身体を滑り込ませる。ゴソゴソと身体を動かしているのはバスローブを脱いでいるのだろう。
 温もりを感じようと傍に寄る。
「あれっ?」
「どうかした?」
「ねえ、お母さんの不倫相手の奥さんに刺されたと、脇腹って言いよらんかった?」
 アタシの手は彼の腹部に触れていた。へその少し下の辺りの皮膚がちょうどナイフの刃くらいの幅で捩れて手術痕のように違う手触りになっている。
「これは別のときに刺されたんだ」
「……そがん、何回も刺されとうと?」
 思わず呆れ声になってしまう。どんな人生を送っていればそんなことになるのか。
「ひょっとして、去年の秋の大怪我ってこれのこと?」
「何でそれを――」
 そこで向坂は訊くのをやめた。アタシが彼の祖母の手紙を読んでいるのに思い至ったのだろう。
「何があったと?」
「ちょっとね。人に自慢げに聞かせるような話じゃないんだけど」
「えーっ、聞きたい」
「……面白い話じゃないよ?」
「分かっとうよ。でも、向坂くんのことやったら、何でもいいけん知りたいと」
 詮索はするのもされるのも嫌いだ。だから、普段のアタシは絶対にこんなことは言わない。
 けれど、今は違っていた。
 高校二年の秋、彼の身に起こったとても悲しくて残酷な出来事を、向坂は思い出すようにポツリポツリと話し始めた。
 
 白川正春。向坂が幼い頃に住んでいた町の名士の息子。温室で美しい花を育てていて、そこに迷い込んだ向坂に――誰からも声を掛けられなかった孤独な少年に――初めて優しい言葉を掛けた男。まともに学校に通えず字も満足に読めなかった向坂に勉強を教え、何かに興味を持つことや学ぶことの楽しさを教えた男。
 しかし、その男は同時に唾棄すべき所業に手を染めていた。確かなこととは言えないが自分に性的な虐待を加えていた兄を殺し、幼児を二人殺し、自らが愛した温室に火を放って家族を殺して姿を消したのだという。偶然のめぐり合わせによってその魔手から逃れたたった一人の人間が、他ならぬ向坂だった。
 去年の秋、もう逢うこともないと思っていた向坂の前に白川正春は戻ってきた。性別を変えて赤の他人とすり替わって。
 自分にとって全てだった人間との対峙は、向坂にとって残酷な二者択一だった。幼き日の約束を守るか、それとも彼を裏切るか。
 向坂はそのどちらも選ばなかった。自らの命をかけてその男に悔悟を求めた。彼の大怪我はそのために負ったものだった。
 白川正春は向坂を病院に運び込んだ後、忽然と姿を消した。その後については何も分かっていないのだという。
 
 話し終えた彼に何かを言うべきな気がした。けれど、掛けるべき言葉は見つからなかった。それは軽々しく「大変やったね」などと同情できるような話ではなかった。
 代わりに気になったことを口にした。
「マサハルって、志村の下の名前も同じやなかった?」
「字は違うけどね。最初は何の偶然かと思ったよ。もちろん、そんなに珍しい名前じゃないから俺のほうが過剰に反応しただけなんだろうけど」
「それが志村のこと、ほっとけんかった理由?」
「どうなんだろうな。同じ名前じゃなくても放ってはおけなかっただろうけど――いや、やっぱりどこかで重ねていたのかもしれない。だから、俺はあいつを名前で呼べないんだ」
「志村は名前で呼ぶばってんね。永って」
「いつか、あいつを名前で呼ぶことがあるかもな、って思ったこともあるけど、今さら呼び名を変えるのも難しいし」
「ま、そうやろうね。――ねえ、お腹の傷に触ってよか?」
「構わないけど……」
 当惑する向坂には構わず彼の腹部に手を乗せた。年頃の女の子がジェラシーを感じそうなほどほっそりした身体。正直、アタシはもう少し逞しいほうが好きだけど、男子にしては触り心地のいい肌を撫でるのは気持ちよかった――けれど。
「あれぇ?」
 向坂の顔を覗き込む。驚いたことにその顔は真っ赤だった。
「……俺のせいじゃないよ。真奈ちゃんが触るから」
「直接は触っとらんやん」
「仕方ないだろ。生理現象ってやつなんだから」
「それは微妙に意味が違うと思うけど。――でも、こっちはあんまりジジくそうなかね」
「当たり前だろ」
 恥ずかしいのか、向坂は子供っぽく頬を膨らませる。アタシはそこに軽くキスした。
「ねえ、最後にもう一回、しよ」
「そうだね」
 向坂は身体を起こしてアタシに覆いかぶさってきた。その首に軽く手を回しながら、今度はしっかりと唇を重ねた。
 

2008.12.10 「Change the world」第31章
 
「……俺、何か気に障るようなこと言った?」
「べ・つ・に」
 当惑しきった目がアタシの顔色を伺っている。
 多分そうなんだろうとは思っていたが、こいつは女心というものがホントに分かってない。存在するのを知らないのではと思えるほどだ。
 確かにスタバの立て看板にもメニューにも”営業時間は24時迄”と書いてある。アタシもそれは承知の上で店に入った。
 でも、まだ追い出されようともしてないのに腕時計に視線を落とす必要もなければ、時間切れを宣告するかのように席を立つ必要もなかったはずだ。アタシたちよりずっと長く居座っている女子四人組のガールズトークだって、まだしばらくは終わりそうになかったのだから。
「悪かったよ」
「何が悪かったとか分からんとに、謝ることなかよ」
「だから、何が悪かったのかって訊いてるだろ」
「自分で考えたらいいやん」
「……何なんだよ、いったい」
 無意味なことをしている、という自覚はある。
 一緒にいられるのはあと僅か。一キロにも満たない天神西通りを歩いて、向坂がホテルに入っていくのを見送るまでだ。どれだけゆっくり歩いても一〇分程度。
 出来の悪いラブコメのようなケンカではなく、もっと意味のある会話があるはずだ。けれど、何を話せばいいのか。こういう経験の乏しいアタシには思いつかなかった。
 代わりに思い切って勇気を振り絞ることにした。
「……手、繋いでよか?」
「えっ」
 驚いたように向坂がアタシを見る。答えが返ってくる前に向坂のダッフルコートのポケットに手を挿し込んだ。ほっそりした体躯には不似合いな大きくてゴツゴツした手に触れる。
「向坂くんの手、ぬくかね」
「真奈ちゃんの手はずいぶん冷えてるね。――なあ、こんな話知ってるかい。手が冷たい人は心が温かいって」
「それは俗説」
「そうかな。俺はまんざら嘘でもないと思うけど。逆の場合を考えるとね」
「なんね、まだ自分が心が冷たいとか言いたいと?」
「そういうわけじゃないけど」
 不思議だった。
 もう、その低い声を聞いても中学時代の彼氏の顔は浮かばなかった。そして、ずっと引きずり続けていた失恋の痛みも感じなくなっていた。
 決して忘れたわけではない。けれど、それは過ぎ去ったことなのだと思うことができた。
 やはり、アタシは向坂のことが好きなのだ。
 ――でも、それは実らない。
 同時に残酷な事実も脳裏をよぎる。遠距離恋愛なんてものに耐えられるのなら、そもそも前の彼氏と別れていない。仮に今、向坂に想いを伝えて彼がそれに応えてくれても、アタシと彼の間には九州と関東の遠すぎる距離が横たわっている。
 しかし、アタシがこの想いが実らないと自覚しているのはそれだけが理由ではなかった。
 アタシと向坂は似すぎていた。
 僅か一日ちょっとを一緒にすごしただけでそんなふうに感じられるのはおかしな話だけど、心根の奥の部分でアタシたちは同じ類の生き物だった。それはまるで群れに馴染めない一匹狼同士が偶然に出会ったように明らかなことだ。少しの自惚れを許してもらえるのなら、口数が少なくて他人と馴染まない向坂がアタシの前では普通の男の子なのは、彼もアタシと同じことを感じてくれているからのはずだ。
 それ故に相手の気持ちが手に取るように――喜びそうなことも、嫌なものが何なのかも――分かるだろうから、お互いをまるで自分のことのように思いやることができるだろう。
 けれど、それはいつの日か逆に重荷になる。相手の中に認めたくない自分の醜さと同じものを見てしまうに違いないからだ。
 そんなことを考えながら、押し黙って歩道を歩いた。
「なぁ、真奈ちゃん」
 向坂が口を開いた。
 横顔はこれまでに見た中で一番穏やかだった。口許には小さな笑みが浮かんでいる。アタシを見る目には何かを吹っ切ったような光が宿っていた。
「なん?」
「これは言わずに終わろうと思ってたんだけど、やっぱり言うことにするよ。――真奈ちゃん、俺に嘘ついてるだろ?」
「……何のこと?」
「祖母さんの手紙のことさ。君はそれを読んだはずだ」

 アタシは嘘をつくのが上手だ。
 褒められた特技ではないが、自分でも驚くほどスラスラと口から出まかせが言える。自分を良く見せる必要がないので自分のためにつくことは滅多にない。けれど、必要なら幾らでも嘘を並べ立てられるし、同じように沈黙を守ることもできる。そこに良心の呵責を感じることはあまりない。
 けれど、今はそのあまりない”いつか”だった。

「……どうして?」
 やっと搾り出せたのはその一言だった。
「思い出したんだ。祖母さんが自分の病気を知ってすぐに自分の部屋で手紙を書いてたのを。盗み読みなんかしないから誰宛てかは知らなかったけど、考えたら祖母さんは滅多に手紙なんか書かない人だったからね」
「それが?」
「なかったんだよ。その時――去年の六月の初めに届いてなきゃならないその一通だけが、あのスクラップ・ブックの中に」
「そがんと、ただ、古河先生が綴じ忘れとっただけかもしれんやん」
「俺もそう思った。だから、帰りに学校に挨拶に寄ったときに訊いたんだ。去年の六月の手紙がないのはどういうわけですかって。先生はその一通だけが見つからなかったって教えてくれたよ」
「それは……。でも、それとアタシが嘘ついたってのと、どがん繋がっとうと?」
 この期に及んでも抗った。不意の一言に対して見せてしまった沈黙が全てを認めるものであったとしても。
「古河先生が見つけきらんかったものを、アタシが見とるはずないやん」
「確かに俺もあのときはそう思った。けれど、何かがずっと引っ掛かってたんだ。それが何なのかは分からないままだったけどね。――けれど、二人で話していてようやく分かった」
「……何やったと?」
「君は俺によく似ている。自分には自分の考え方があるってことを強く思ってるし、同じように人の心がそれぞれだってことを知ってるから、何かを決めつけてかかったりしない。それなのに、あのときだけは違ったよね」

”感情がコントロールできなくなって、大切な孫を傷つけるのが怖かったからに決まってる”

 あの書斎でアタシは安斎啓子が孫と距離を取り続けた理由をそう結論付けた。それが愛情に由来するものであると向坂に言い聞かせるために。まったくの嘘だったとは思わないけど、恣意的に歪めたものであるのは事実だ。
「志村に俺の足止めをさせて、郷土史家の仕事に興味があるようなふりして自分だけ先に離れに入ったのは、祖母さんの手紙を探すためだったんだろ?」
 答えない。答えられない。
「そして、君は手紙を見つけた。そこにはおそらく、俺に知らせたくないようなことが書いてあったんだ。だから、君はその手紙を俺に見せずに、代わりに他の手紙から俺が傷つかないような答えを導き出した。そうだろう?」
「……そがんと、ただ、アタシの言葉尻を捉えて揚げ足とりようだけやん」
「そうさ。でも、間違ったことを言ってないのには自信があるよ」
「どうして?」
「嫌な特技だけど、他人の顔色から感情を読み取るのは得意なんだ。もし、君が何もしてなくて、あの結論も本当にそう思ってのものだったんなら、どうして、そんなに後ろめたさそうな目で俺を見るんだい?」
 アタシは本物の馬鹿だ。どうしてあのとき、二人を残してさっさとZを走らせなかったのか。そうすれば、この男のこんな言葉を聞かずに済んだのに。自分の後ろめたさから逃れるために、せっかくうまくいきかけていた嘘を自分で台無しにしてしまった。
「……ごめんなさい」
 他に言える言葉はなかった。
 手紙の内容を話さなくてはいけないような気がした。向坂もそれを求めてくると思った。
 しかし、向坂は小さく肯いただけだった。その眼差しがアタシをまったく責めていないのが逆に苦痛だった。
「手紙はアタシが持っとうよ。ここには持ってきとらんけど。――どがんする? 明日、見送りに行くときに持ってきたらよか?」
「そうだな……。真奈ちゃんはこれから家に帰るんだろ?」
 質問の意味が分からない。けれど、肯くしかなかった。
「帰るよ、真っ直ぐ」
「だったら、家に着いたらその手紙を破り捨ててくれ。いや、それだけじゃ足りないな。もう、どんなことをしても読めなくなるように燃やしてしまってくれないか」
「えっ……?」
 向坂の手がアタシの手を握り返してきた。今ごろになって自分が向坂のポケットに手を突っ込んだままだったことに気づいた。
 抜こうとしなかったのではない。話の間、ずっと向坂がアタシの手を離さなかったのだ。
「本当のことが知りたかったっちゃないと?」
「違うよ。――帰りの車の中で真奈ちゃんが言ったよね。どうせ正解が出せないんだったら、どれだけ自分に都合がいい答えを出しても文句は言われないって。ほら、何だったっけ、村上さんが言った台詞?」
「”真実とはバレない嘘のことである”」
「そう。俺は読みたくもない祖母さんの手紙より、真奈ちゃんがついてくれた嘘のほうがいい」
「向坂くん……」
「嫌なことを言わせて悪かったね。でも、言わずに帰ればきっと後悔するし、真奈ちゃんにもずっと苦しい思いをさせたはずだから。――だから、ホントにありがとう」
 ポケットから握り合った手を出して、向坂はアタシに向かい合った。とても丁寧に、しかしきっぱりとした態度でアタシの手を離そうとする。
 そんな向坂の手を自分から振り払った。代わりにアタシよりもちょっとだけ背が低くて、ちょっとだけほっそりした身体に抱きついた。
「……アタシ、まだ、帰りとうない」
 さっきまで言えなかったその言葉を、とても素直に口にすることができた。
 


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