『琥珀色の遺言』(別館)

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2008.11.28 「Change the world」第18章
 
「ぶへぇ、やっと着いたー!!」
 助手席の志村が大げさなため息をつく。フェアレディZは九州自動車道の大宰府インターチェンジを潜り抜けて、連結している福岡都市高速に乗り入れた。
 夕方のラッシュアワーなので都市高速もちょっと車が多いけど、福岡のドライバーはここが法律上は制限速度六〇キロの一般道であることを知らない――というより、知ってても無視している――ので、流れはかなりスムーズだ。
 夕暮れというよりもうっすらとした宵闇に包まれ始めた街並みが、高架のフェンス越しに広がって見える。福岡というところは市街地のすぐそばに空港がある関係であまり高い建物は建てられず、ネオンの灯りもかなり遠くまでなだらかな高さで連なっている。
 同じようなことを昨夜、二人も話していたらしかった。
 しばらく福岡というのがどういうところか、思いつくままにしゃべった。テレビでよく”博多”という地名が出るので(それと主要駅が”博多駅”なのもあって)福岡の県庁所在地は博多だと思っている人が少なくない、という話をしたときに、志村が実は福岡と博多は別のものだと思っていたと白状した。
「だってよ、それは紛らわしいぜ。悪いのは俺じゃねえよ」
「いや、おまえだろ。47都道府県の県庁所在地は、ちゃんと社会の授業で習うんだから」
「いつの話だよ、それ」
 向坂の指摘に志村が不満そうに顔をしかめる。後ろのプラス2から”しょうがないな”という感じの苦笑が聞こえてくる。
 行きと違ってカーナビの操作の必要がないから、という理由で、帰りの車中では二人は座席の位置を入れ替えていた。
 自分が命じておいてなんだけど、長身の志村にとってZの後部座席はトランクに押し込められているのとあまり変わらなかっただろう。一方、向坂は狭いところが苦にならない性分なのか、さっさと靴を脱いでシートの上で半分寝そべるような格好になっている。
 アタシがそうしろと言ったわけじゃなかったけど、向坂がアタシの視界に入るところからいなくなってくれて、正直ありがたかった。
 とてもじゃないけど、彼の顔をまともに見ることができなかったからだ。
 
 
 あれからアタシは、カセットテープとスクラップ・ブックを手に書斎に戻った。
 向坂にそれらを見せて――その間に志村に<ア・ホール・ニュー・ワールド>を歌って聴かせる羽目になったけど、それは別にいい――アタシは、それが彼の祖母の”本当の”気持ちだったのではないかと言った。
 もちろん、彼は反発した。
 アタシは隠されていた手紙で知っていたけど、向坂もまた、ほとんど全てのことを知っていた。
 安斎啓子と向坂一典の間に身体の関係があったことや、二人の間に子供ができたこと。
 それが元で啓子が離婚したことや、子供は結局生まれてこなかったこと。
 知ってか知らずかはともかく、向坂一典が安斎千晶の夫として啓子の前に現れたこと。
 自分の存在が祖母の過去の汚点を思い出させること。
 祖母が何も知らない孫に憎しみをぶつけないために、自分と距離を置き続けていたこと。
 アタシはたまらなく悲しかった。向坂が吐き捨てるように口走ることが、一つとして安斎恵子が兄に語った事実と違わなかったからだ。

 ――真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない。

 脳裏に木霊したのは、またしても村上の言葉だった。けれど、今度は続きも一緒に浮かんできた。

 ――さっきの言葉には逆の意味もあることを覚えておけ。真実が美徳とは限らないように、嘘が悪徳とは限らんということだ。

 そうか、そういうことか。
 おそらく、村上はアタシの説明を聞いていて、こうなることを予想していたのだ。だから、普段はアタシを諭したりしない寡黙な男があんなことを口走ったのだ。
(ふん、今度会うたらコーヒーを浴びるほど飲ませてやらないけんね)
 心の中でそう一人ごちて、アタシは芝居がかった足取りで向坂の前に回り込んだ。近くにあった椅子を引き寄せて腰を下ろす。やるべきこと、たどり着くべき結論はハッキリしていた。そして、そういう状況で嘘を並べ立てさせれば、アタシの右に出る人間はそうはいない。
「――ねえ?」
 アタシは志村を呼んだ。
「なんだ?」
「向坂くんって女の子にモテる?」
 怪訝そうな顔をする二人に向かって、アタシはゆっくりと口を開いた。
 
 
 さっきから、アタシの携帯電話は振動しっぱなしだった。それが由真からのメールが届いた知らせなのは間違いなかった。こんな時間にメールを送ってくる知り合いが他にいないからだ。
 内容はどう考えても催促以外ではあり得ない。
(どがんしようかな――)
 向坂に抱いている後ろめたさから逃れる一番手っ取り早い方法は、このまま二人をホテルに送り届けて、そこでお別れしてしまうことだ。
 二人はそれで文句を言ったりはしないだろう。由真には二人の男の子とは話しているうちに何となく気が合わなくなってきて、そのまま帰ってきてしまったと言えばそれで済む。もちろん、相当なブーイングを浴びる覚悟はしておく必要があるが、由真には二人と連絡をとる方法がないので何を言っても後の祭りでしかない。
 二人が泊まっている西鉄グランドホテルのほうへ、渡辺通りから明治通りへと右折するレーンに入った。一台前の佐賀ナンバーのバンが右折信号が出ているのに停まってしまったので、アタシもその後ろでちょっと急なブレーキを踏まされた。
「あー、もう。ヘタクソ」
「昨日の法律事務所のオンナもそうだけど、福岡のドライバーって口悪いよな」
「そうなん?」
「おい、他人事みたいに言うな。おまえも含めて言ってんだよ」
「まー、仕方ないとよね。黄色まだまだ赤勝負、とか言う人が多か土地だけん」
「だから、他人のせいにするなっつーの」
 志村に向かって反論しながら携帯電話を開いた。メールはやはり由真からだった。アタシが長文のメールが嫌いだという理由で文面はとんでもなく短い。
 <こっちは終わったよ。いつでも合流OK!!>
 メールにはカメラの画像も添付されていた。彼女が仲良くしている――アタシも一応はその輪に入っているが――いつもの三人組が、由真の背後に割り込むようにして写っている。そういえばこのメンバーには字は違うけどケイコとチアキという向坂に所縁のある人物と同名の人間がいる。偶然の一致に過ぎないことは分かっているけど、今のアタシはそれを笑う気にすらなれなかった。
 ちょっと待て。
 ということは、今日のこの小さな旅はすでに仲間内では周知の事実なわけだ。そして、彼女たちは由真と行動を共にしている。それはつまり、アタシと由真が合流するときには彼女たちもそこにいることを意味している。
 慌てて出かけようとして、由真に口止めするのを忘れていた自分の迂闊さを呪った。
「どうかしたのかよ?」
 志村が言った。アタシは知らないうちに携帯電話の画面を睨みつけて、思いっきり眉根を寄せていた。慌てて笑顔を作ってパタパタと手を振った。
「ううん、別に何でもなかよ。――そろそろホテルに着くけん、荷物とかまとめとってね」
「ねえよ、そんなもん。手ぶらだし」
「そ、そがんやったね」
 アタシは何を焦っているのだろう。二人に荷物などないのは知っていたはずだ。
 信号はまだ変わらない。
 今のうちに由真に返事のメールを打ってしまおうかと思った。福岡の大動脈であるこの通りはラッシュ時の流れが悪いので、メールを打つのが遅いアタシでもその程度の余裕はある。ブーイングが四倍になるのは気が重いけど、断りを入れるのなら早いほうがいい。
 ルーム・ミラーでチラリと後部座席の様子を窺った。向坂はZのリア・ウィンドウから天神の街並みを眺めていた。
 渡辺通りの両側に同じくらいの高さのビルが延々と続いている様は、異邦人である彼の目にどう映っているのだろう。福岡という、おそらくこんなことがなければ訪れることのなかった街は。
 そんな街で出会ったアタシという人間は。
 思い直して、急いでメールを打った。
<もうすぐ二人が泊まってるホテル。一回、家に帰ってから合流するつもり。そっちは?>
 返事は間髪いれずに返ってきた。
<じゃあ、あたしも一回、家に帰るね。みんなとはキャナル集合ってことで>
 三人を連れてきていいといった覚えはなかったけど、すでに既成事実となっていることに文句を垂れても始まらない。そもそも、由真にアタシの意見を聞く耳などあろうはずがないのだ。
<了解。じゃあ、あとで>
 それだけ打ったメールを送って携帯電話を閉じた。
 信号が青に変わっても右折車はほとんど前に進まない。右折の矢信号が出てようやくZを明治通りに乗り入れることができた。そこまでくれば西鉄グランドホテルは目と鼻の先だ。
 その車寄せで二人をデートに誘った。ちょっと恩着せがましい口調で言ってみたら、意外なことに先に誘いに乗ってきたのは向坂のほうだった。
「道に迷わんごとね」
 それだけ言い残して、着替えに帰るために薬院方面へ走り出した。
 裏道をぶっ飛ばしながら、自分がどうして彼らと別れてしまわなかったのかについて考えを巡らせた。答えは意外と簡単に出た。アタシは嘘をつくことに疲れていたのだ。向坂と志村にも、由真たちにも。
 そして、誰より自分自身に。
 
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2008.11.24 「Change the world」第17章
 
 何故か忍び足で祠に近寄った。
 秋月が黒田藩の支藩だった頃からあったもののはずだけど、石造りの土台の上に載っているのはコンクリートで出来た小さな上屋だった。あまりにも古くなって建て替えられたのだろう。中に安置されている仏像だけが長い年月を越してきたらしく、真っ黒に黒ずんでしまっている。
「失礼します……」
 誰に言うでもなく声を潜めて祠の中を覗き込んだ。ミッション系の私立女子高に通っているにも関わらずまったくキリスト教を信じていないアタシだけど、同じくらい仏教や神道にも興味がない。それでも、こういう行為に本能的な畏れを感じてしまうのはアタシが日本人である証拠なのだろう。
 捜し物は拍子抜けするほどあっさり見つかった。仏像の背中側にビニールとガムテープでぐるぐる巻きにされた小さな包みがあったのだ。
 テープを破る一瞬、村上の声がフラッシュ・バックした。

 ――真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない。

 確かにそうだろう。アタシも否定はしない。けれど、何が真実かを知らずにそれを判断することはできないじゃないか。
 和室に戻って、意を決して包みを解いた。
 向坂衛が教鞭を執っていた久留米大学の封筒の中身は封筒が一つとケースに入ったカセットテープだった。ラベルは貼ってなかったけど、代わりにケースに小さく折り畳んだ紙が入っている。
 まず、そちらを先に開いた。横書きのレポート用紙に書かれていたのは<ア・ホール・ニュー・ワールド>の歌詞とその和訳だった。端整なブロック体がタイプライターで叩いたように堅苦しく並んでいる。
 実はこの曲には思い出があって、アタシは英語の詩をほぼ丸暗記している。アタシの父親はひどい訛声のくせに歌うのが好きで、アタシは音痴の母親の身代わりでしょっちゅうデュエットの相手をさせられていた。そのレパートリーの中の一曲なのだ。アタシが洋楽オンリーなのはこの父親の影響なのだけれど、考えてみたら子供の頃からそんなことを強要されていながら、よく音楽嫌いにならなかったものだ。
 それはともかく。歌詞の和訳のところに目を走らせた。
 英語の先生らしい日本語としてはちょっと不自然な文章だった。行頭に括弧がついたところの言葉遣いが違っているのは、アラジンの台詞でもある男性パートとジャスミン姫の台詞の女性パートの違いなのだろう。
 これがここにあるのは、おそらく例の映画上映会の後に安斎啓子が<ア・ホール・ニュー・ワールド>のことを思い起こしたからだ。上映会の帰りに甘木市内のレンタル・ショップからCDを借りてきてダビングし、ついでに歌詞カードを書き写して和訳した――そんなところだ。
 もう一度、レポート用紙に目を通した。そこに何か、安斎啓子の感情の残滓を捜そうとした。例えば震える文字。あるいは涙の跡。
 そこにはどちらもなかった。映画を見て甦った遠い日の孫との思い出は、号泣したことですっかり昇華されてしまっていたのだろうか。
 レポート用紙をケースに戻して封筒に手を掛けた。
 内容はあまりにも惨いものだった。

     *     *     *

 前略、衛兄さん。

 突然、こんな手紙を送ることをお許しください。どうしても誰かに伝えなくては収まらず、だからと言って、誰にでも言えることではありませんでした。私には想いをぶつけられる相手は兄さんしかいないのです。
 実は先日、急に我慢が出来ないほど具合が悪くなって病院に行きました。以前から身体の調子が良くないとは思っていたのですが、これまで大きな病気をしたことがなかったものですから、つい軽視してしまっていたのです。
 診断の結果は、子宮がんでした。しかも、発見が遅かった為にかなり進行してしまっているようなのです。抗がん剤を使った治療を受けることにはなりましたが、正直なところ、お医者様の口調からは助かる見込みはあまりなさそうに思えました。
 こんなことを言っては兄さんに怒られるでしょうけど、死ぬことはさほど怖くありません。
 しかし、自分がもうすぐ死ぬのだということを考えるとき、私の人生は何だったのだろうという空虚な想いを抑えることができません。
 思えば、私の人生は過ちの連続でした。最初の夫との生活をどうして平穏に続けることができなかったのかと今でも歯噛みすることがあります。もし、私があのとき、あの人を裏切らなければ、何もかもが違っていたはずだからです。千晶をあんなに苦しめることもなかったでしょうし、私のお腹の中に望まれない命を宿すこともなかったのです。もちろん、その子を失うことも。
 そして、その過ちの相手が千明の夫として再び私の前に現れることも。

 心残りは、永一のことだけです。
 私がこの世を去れば、あの子の面倒を見る人間はいなくなるでしょう。自分の娘を悪し様に言いたくはありませんが、千晶はむしろ永一に面倒をかける側でしょうし、父親は私の葬儀に顔を見せるかどうかすら怪しいものだからです。
 せめて、あの子が成人して一人前になるまでは、と思っていたのですが、それは叶わぬ望みなのですね。しかし、

     *     *     *

 文面はそこで一度、ブツンと途切れている。これまでのどの手紙でも見ることができなかった、文章を書くことに迷ったようなペン先の跡がそこにはあった。
 手紙は次の便箋に続いていた。

     *     *     *

 ごめんなさい。こんなおためごかしの為に、目が悪い兄さんに手紙を書いているのではありませんでした。
 今になって振り返ると、私は永一を愛していたのか、まるで自信が持てません。
 一人娘の千晶が産んだたった一人の息子です。私にとってもたった一人の孫です。愛せないはずはありません。ずっと、そう思って――いえ、思おうとしてきました。
 大切なかけがえのない存在だとは思っています。あの子の両親がまったく当てにならない以上、あの子の人生に責任を取れるのは自分しかいないとも思っています。
 愛そうと努力はしました。本来、祖母がする必要のない努力ですが(そうでしょう?)何とか、あの子へ自分の心を注ごうとしました。
 けれど、私は永一を受け入れることができませんでした。理由は言うまでもありませんね。歳をとる毎にあの頃の向坂一典に似てくるあの子が、私の過ちをまざまざと思い出させるからです。
 永一が悪いわけではないのは分かっています。当たり前のことです。同じように、あの子の父親が悪いわけでもありません。当時、彼は高校生で、私はその学校の教師でした。世間的に言えば、責められるべきなのは私のほうなのですから。
 けれど、私がこれほどに苦しんでいるというのに、何事もなかったような顔で私の前に現れたあの男を許すことはできませんでした。そして、それを思い出させる永一を受け入れることも、やはりできそうにありません。
 永一は賢い子です。私が自分にわだかまりを持っていることに気づいていたのでしょう。不必要に私に近寄ることもなく、それなのに、何とか私と打ち解けようとしてくれました。けれども、その努力の全てが、私にとっては苦痛以外の何者でもありませんでした。
 いっそ、あの子が赤の他人であってくれたら、と何度思ったことでしょう。そうであれば、ただ遠ざけるだけで済みます。しかし、肉親はそういうわけにはいきません。愛するべき家族であるからこそ、憎しみも同じだけ募っていくのです。

 死を現実のものとして捉え始めたときに、最初に浮かんだのがこんな想いであったことが恥ずかしく思えてなりません。結局、私は自分が犯した罪の亡霊に取り憑かれたままで、今日まで生きてきたのでしょうね。
 せめてもの償いに、私は最後のときまでこのことを心の奥にしまい込んで、永一の前を去ろうと思っています。あの子を愛していた、なんて嘘は口が避けても言えませんが、私にしてあげられることはおそらくそれくらいでしょうから。

 追伸。
 予め電話でお願いしておいた通り、この手紙はくれぐれも横河家の方々の目に触れないようにしてください。私の病気のことも、同じように周囲には仰らないようにお願い致します。ですから、今後の手紙でもそのことには触れません。そのために、ひょっとしたら見え透いた嘘を書くことがあるかもしれませんが、そのときは愚かな妹の意地だと心の中で笑ってくださると幸いに存じます。

     *     *     *

「――ところで、真奈ちゃんは?」
 向坂の声がする。志村がそれに応える。
「さあ、どこだろ。奥の部屋じゃねえか?」
 二人は書斎で何やら話している。スクラップ・ブックがどうとか、そんな内容だった。
 いつまでもここにいることはできない。とっさに手紙を自分のバッグに押し込んで足元に置いていたスクラップ・ブックを拾い上げた。
 何をどうすればいいのか、すぐには分からなかった。アタシに分かったことは唯一つ、この手紙を向坂に見せてはならないことだけだった。

 ――真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない。

 村上恭吾が投げつけた台詞が、頭の中でずっとリフレインしていた。
 

2008.11.23 「Change the world」第16章
 
 どう解釈すればいいのか、まったく分かりかねた。
 向坂と彼の祖母の間にはここには記されていない確執がある。そうとしか、この文章を理解する方法はないように思えた。しかし、だとすると、安斎啓子が<アラジン>を見て号泣したことの説明がつかない。
 もちろん、彼女が孫に向ける感情が愛憎のどちらかに偏っていたとは言い切れない。むしろ、それは入り混じっていることが多い感情のはずだ。ただ憎いだけの相手なら無視すれば済む。そうではないから人はお互いを傷つけあうのだ。
 想像していたものとはかなり違っていたことに大きな徒労感を感じた。一瞬、向坂にこれを見せるのをやめようかとすら思った。
 しかし、そうするには一つだけ気がかりなことがある。一通だけ見つからなかった去年の六月の手紙だ。
 向坂衛は妹から届いた手紙を全て保管していた。最初の頃の数通が無くなっている可能性はあるけど、少なくともスクラップ・ブックに綴じられている手紙は先生の説明どおりに春夏秋冬毎に届いたものが順に並んでいた。
 それなのに、どうしてその一通だけが一緒に保管されていないのだろう。しかも、白内障で字を読むのが難儀だというのに横河先生に内容を読ませることもなく。
 書斎のどこかに隠してあるのだろうか。
 だったら、横河先生が見つけているはずだ。
 和室はどうだろう。
 それも難しい。もちろん、鴨居の上とか天井裏なら分からないけど、定年して三年の安斎啓子と一回り以上違うのであれば向坂衛は八〇歳近かったことになる。病を患った身体でそんなところに手を伸ばせたとは考えにくい。床下も同じことだ。土間にもそれらしき袋戸はない。あったとしても、やはり先生が見つけているはずだ。
 捨てたのだろうか。あるいは失くしてしまったか。
 可能性はそれが一番高いのかもしれない。けれど、そうではなかったとしたら。
「それにしても、田舎ってすげえなー」
 不意に玄関の土間から志村の声がした。向坂が何か返事をしているようだけど、ボソボソとした声なので何を言っているかは聞き取れなかった。
 あまり放っておくのも不自然だ。手にしていたスクラップ・ブックを奥の和室に置いて、そちらに顔を出した。
「ほら、なんばそがんとこで二人で突っ立っとうとねって。入らんね!!」
 呼び声に反応したのは志村だけだ。向坂は相変わらず仏頂面でアタシの顔を見ようとしない。
 ――嫌われたもんやね。
 自分が誰のために何をやってるのか、分からなくなりそうになる。けれど、首を突っ込むと決めたのが自分である以上、納得できないままで手を引くことはアタシにはできない。
 二人を残して奥の和室に戻り、さっきのスクラップ・ブックを手に取った。
 隣の部屋からは二人の話し声が聞こえてくる。志村はアタシが頼んだことを忠実に遂行しているようだった。
 切れ切れに聞こえてくる会話の内容は戦時中に疎開してきた向坂兄妹のことだ。そういえば、書斎の欄間に少年と幼い少女が一緒に写った白黒写真が飾ってあった。あれがそうなのだろう。向坂はアタシが横河先生から聞いたのと同じ、彼の大叔父とその父親の確執についてを志村に分かるように言葉を選んで説明してやっている。
 まだ、少し時間の余裕がありそうだ。土間用の下駄を引っ掛けて勝手口から外に出た。
 家捜しのプロには二人ほど心当たりがある。一人は誰の部屋に行ってもすぐに探検を始めてしまう悪癖を持ったアタシの親友で、もう一人は本当に家宅捜索を仕事の一部にしている福岡県警博多警察署勤務の現役の刑事だ。
 話しやすさでは圧倒的に前者だけど、今の時間だとまだ補講の真っ最中だ。仕方ないので村上の携帯電話を鳴らした。
 この男にしては珍しくワンコールで繋がった。
「……どうした?」
「うん、ちょっと相談に乗って欲しかことがあると」
「珍しいな。言ってみてくれ」
 細かいディテールは伏せたままで、ざっと事情を説明した。
「それで、おまえは何がしたいんだ?」
 村上の声には明らかに呆れたようなニュアンスが混じっていた。
「その手紙の在り処が知りたいに決まっとうやん」
「それはそうだろうけどな。俺が言ってるのは、それを手に入れてどうするんだって話だ」
「どうって……内容が分からんけん、まだ、そこまで考えとらんよ」
「なるほど。相変わらずだな」
 ――何がね?
 つい、いつものように食って掛かりそうになったけど寸でのところで思い留まった。そんなことをしている場合ではない。
「で、あんたやったら、どこに隠しとうと思う?」
「そんなこと、現場も見ずに分かるわけないだろう。寝言は寝てから言ってくれ」
「そがん言わんでもいいやん。ちょっと、こがんときのヒントとか、コツとかあったら教えてって言いよるだけやろ?」
「そんなもんがあったら、俺が教えて欲しいくらいだがな。ただ、幾つか言えることはある。いいか?」
「オーケー」
「まず、向坂氏が手紙を隠した理由だ。俺もそれについてはおまえと同意見。おそらく、その手紙だけが他とトーンが違ったんだと思う。いつもの代読人に頼む前に手紙の内容を知っていたのだけがちょっと不自然だが、あるいは妹からそれを匂わすような連絡があったのかもしれないな。まあ、それはいい」
 村上は言葉を切った。電話の向こうで何かを飲んでいるような音がした。
「――で、問題の隠した場所だ。そもそも、向坂氏はどこで亡くなったんだ?」
「そがんと知らんけど、普通に考えたら病院やないと?」
「だろうな。最近は自宅で死ぬと変死扱いになるんで、病院もそういう死期の迫った患者は自宅に帰さない傾向があるし。だとしたら、彼は入院する前に手紙を隠したことになる」
「やろうね。それが?」
「考えてみろ。誰の目にも触れさせちゃいけないから、向坂氏はその手紙を別にしていたんだ。だったら、他の誰かが足を踏み入れるようなところには普通は置かない。ましてや、死期が迫った老人なんだ。自分の身に何かあったときのことを考えれば、遺品を片付けるときに見つかるようなところには隠さないだろう。ま、だったら、とっくに捨ててしまってる可能性のほうが高いんだが」
「アタシはそうやないと思うとやけど」
「どうして?」
「理由は分からんけど、向坂衛は不自由な目をおして妹の手紙を読んだわけやろ。そこまでする必要があった手紙を、他の手紙を残さず保管しとった人が捨てられるとは思えんとよね」
「なるほど。確かにそうだな」
 村上は電話の向こうで鼻を鳴らした。この男が感心したことを示す仕草なのだけど、知らない人間からすれば喧嘩を売っていると取られても仕方のない癖だ。
「紙を紛らわすなら紙の中で書斎に隠してある可能性が一番高い気がするが、そこは代読人の女性の手で片付けられているんだろう?」
「そう。寝室やったところもそがん。もう、ほとんど空き家並みに片付いとるよ」
「それなら、答えは出たようなもんだな。隠してあるのは家の外だ」
「……ちょっと待って。そがん単純なもんね?」
「おまえがさっき言ったことだぞ。向坂氏は八〇歳近い老人だ。高いところに手を伸ばしたり、逆に畳をめくって床下に隠せたとは考えにくい。しかも隠すものは紙だ。ビニールに包んだからといってどこにでも置けるものじゃない」
「やったら、外はダメやん」
「その離れは昔は座敷牢だったと言ったな。周りをよく捜してみろ。おそらく、その藩に所縁がある誰かの祠のようなものがあるはずだ。あるいは、そこで獄死した誰かのな」
「気持ち悪かこと言わんでよ。なんで、見てもおらんとにそがんとがあるって言えると?」
「そういうものなんだよ」
 霊感がまったくないにも関わらず、アタシはこの手の話題が苦手だ。おそらく、父親のお供で深夜のテレビ映画(何故か、あの時間帯は怖いのが多い)を見せられ続けた影響だろう。
「まあ、俺は捨てられてる可能性のほうが高いと思うが、捜すんだったら頑張ってみてくれ。もしも屋外に隠してあったら、賞品代わりにコーヒーでも奢ってもらおう」
「あんたが言うとおりやったらね。――それじゃ」
「ちょっと待て。もう一度訊くが、自分が何をしてるか、分かってるんだろうな?」
「……どがん意味?」
「真実が必ずしも誰かの心を救うわけじゃない、ということさ」
「それは――」
 分かっているつもりだ。
「……じゃあ、何。本当のこととか知らせんで、東京に帰らせたほうが良かっていうと?」
「それはおまえが考えることだ。ただ、さっきの言葉には逆の意味もあることを覚えておけ。真実が美徳とは限らないように、嘘が悪徳とは限らんということだ」
「ふん、大きなお世話ったい。じゃあね」
 言われているのが正論なのは間違いないけど、ムカついたので無造作に電話を切った。その間際に相手が何かを切り出そうとしたような気がしたが、わざわざ掛け直して訊くほどのことでもあるまい。重要な用事ならあっちから掛けてくるはずだ。
 下駄履きで母屋から見てちょうど裏側になるところの角を曲がった。
「祠ねぇ……って、あるやん」
 驚いたことに離れの真裏に小さな祠があった。
 一瞬、アタシは偵察衛星か何かから監視されているんじゃないかと思った。けれど、考えてみれば村上恭吾は昔からそういう物言いをする男だったし、それが明らかに間違っていたことはこれまで一度もなかった。
 そして、それが余計にアタシを苛立たせた。
 

2008.11.23 「Change the world」第15章
 
 黄色いちょっとゴワゴワした台紙の綴りのページに飾り気のない便箋が一枚ずつ貼られていた。一冊が二〇数ページしかない割に分厚く感じられるのは、右側のページにしか貼っていないだけじゃなくて、貼り方が雑で便箋が台紙から浮いていたりして収まりが悪いからだ。
 三ヵ月に一度の便りの割には手紙はどれも短かった。小さくて神経質そうな文字がきっちり詰まっているので文章量はそれなりにありそうだけど、大半のものは一度に一枚。たまに二枚のこともあるけどそれより長いものは見当たらない。
 とりあえず、一番最後の手紙に目を通した。去年の六月――向坂と先生の昼食時の会話によれば、彼の祖母、安斎啓子が亡くなるおよそ二ヶ月前に書かれたものだ。

     *     *     *

 拝啓、衛兄さん。

 爽やかな初夏、とはいささか言いづらい雨の日が続いていますが、お変わりありませんか?
 先日戴いたお便りでは、お元気そうな写真を送ってくださって嬉しく思いました。ですが、また病気に再発の兆しがあるとのことで、大変心配しています。
 出来ることなら身の回りの事をしに駆けつけたいところなのですが、なかなかそうもいかないことが心苦しく思えてなりません。みどりさんを始めとした横河家の皆さまに兄さんのお世話を重ねてお願いするのと、遠くから一日も早く快方に向かわれることをお祈りする次第です。
 ところで私のことですが、特に大きな変化もなく、平穏な日々を送っております。
 せっかくの手紙なのですから、何か面白おかしいことをお知らせしたいところなのですが、考えてみれば、この歳になって平穏無事な人生を送れているというのは本当に幸せなことです。そうじゃありませんか?
 でも、一つだけ、私にも心を躍らせていることがあるのです。何だと思われますか?
 どうやら、この秋には兄さんのところへ遊びに行けそうなのです。
 定年を迎えてそろそろ三年になりますが、しかし、身の回りの雑事というのはなかなか減らないもので、最後にそちらへ伺ってから二年以上が過ぎてしまいました。あれは春のことでしたから、秋月城址の前の通りでは桜が美しい花を咲かせていましたね。
 みどりさんが紅葉の季節の秋月も素敵だと言われていたのを思い出します。秋月だから秋は素晴らしい、という兄さんの駄洒落はちょっと戴けませんでしたけれど……。
 それは冗談ですが、またお会いできる日を楽しみにしております。そのときまでに兄さんが健康を取り戻されていることを切に願っております。敬具。

 追伸。
 永一のことですが、大学に進む気になってくれたようでホッとしております。両親があんな調子ですから、あの子がちゃんと向学心を持ってくれるかどうか、とても心配していたのですが、どうやら杞憂だったようです。経済的な部分でまだ不安が拭い去れたわけではないのですが、そこは何とかなるのではないか、と柄にもなく楽観的なことを考えたりしていて、自分でも可笑しいのですが。

     *     *     *

 これまでに聞いた話を総合して言えることは、安斎啓子は兄への手紙に本心なんか書いていなかったということだけだ。
 向坂の祖母は彼が高校二年の夏に子宮がんを発症し、抗がん剤治療の末に一年後に息を引き取っている。アタシの身の回りにはがんの闘病患者がいないので詳しいことは分からないけど、あれはかなり身体に負担がかかって苦しいと聞いたことがある。すでに末期状態だったはずの六月に九州の片田舎への旅行を計画できたとは思えなかった。
 体を壊している年老いた兄に心配をかけたくなかったのだ、とは言えるかもしれない。しかし、それにしても――もちろん、それはアタシが現実の一端を知っているからなのだろうけど――たった一人の兄に嘘をつくというのは、いささかやりすぎな気がした。
 その一つ前の手紙も内容的には大した違いはなかった。アタシは安斎啓子の手紙から彼女の人物像へ近づこうとしたことへの徒労感に襲われた。
 ただ、一つだけ気になることがあった。手紙の最後には必ず追伸があって、それはいつもたった一人の孫に触れたものだったという事実だ。
 全部を読む時間はないのでそこだけを拾い読んでいった。

”永一が無事に高校三年生に進級しました。無事にと言っても、成績の面ではまったく心配する必要はなかったのですが、あの子は去年の秋に大怪我をして入院しましたから、出席日数や単位がちゃんと足りているかどうか、心配で仕方なかったのです。私としたことがまだ学校に勤めている同僚に問い合わせてみたりして……。もちろん、永一にはそんな素振りは見せませんでしたが。”

”先日、永一の家庭訪問がありました。尤も担任の先生は私のことを知っていますから、どちらかと言えばかつての同僚が訪ねてきたような感じでしたし、そもそも、何かにつけて永一のことは耳に入ってきますから、家庭訪問の必要があったのかすら疑問なのですけれど。結局、永一がクラスにあまり馴染めていないことと、成績はこの調子で行けば問題なかろうということを五分ほど話しただけで担任は帰ってしまいました。”

 かと思えば、志村に触れているところもあった。

”最近、永一の友達という男の子が我が家に出入りするようになっています。ちょっと不良っぽいところがあって、どうしてこんな子と永一が友達になったのか、私には理解できないところがあるのですが。ただ、この男の子と友達付き合いするようになって、永一が少しですが明るくなったような気もするのです。こういうことは、やはり同じ年頃の友達にしかできないことなのでしょうね。”

 追伸のほとんどはこんな調子だったが、中には同じ内容でもやや孫のことを貶すような表現のところもあった。横河先生が向坂衛に読んでやらなかったというのはそういう部分のことだろうと思われた。
 短い文章でも、これだけ積み重ねられるとそれなりの情報量がある。手元の一冊からその前へと流れをたどっていくと、向坂は中学一年のときに祖母に引き取られていることが分かった。理由はともかく、その年の三月の手紙に書いてあったので間違いあるまい。
 そこから後の手紙には彼が周囲の心配に反して成績優秀で――これまた理由は分からないけど、向坂は小学校のどこかで一年留年しているらしかった――しかし、周囲にはまるで溶け込めない異端児だったことが表現を変えながら繰り返し書かれている。ただ、それが元で苛められたとかいうことはないようだったが。
 引き取られる前の手紙も読んだ。
 そこにも追伸はあった。けれど、引き取った後に比べれば内容があっさりしているというか、人づてに聞いた話のような書き方が目立っていた。向坂の祖母と母親は仲が悪かったというから、孫に会う機会そのものが少なかったのだろう。そんな中でも向坂のことを書き続けたのは彼女の愛情だったようにも思える。
 さらにページを遡った。そして、捜していた<アラジン>絡みの記述を見つけた。
 平成五年の夏の手紙。そこにはこう記してあった。

”先日、初めて永一を連れて映画を見に行きました。やっていたのはディズニー映画で男の子にはどうかと思いましたが、永一は大喜びでした。映画そのものが面白かったのか、私と出掛けたのが嬉しかったのかは分かりませんが。私にとっても、初めて永一に普通の祖母らしいことをしてやれた一日でした。ですが、それもこれが最初で最後です。”
 

2008.11.22 「Change the world」第14章
 
「うっわ、うめぇ!!」
 おそらくそういう反応だろうと思っていたけど、志村はお椀を抱え込むようにしてだご汁を口にかき込んでいた。
 上品とはお世辞にも言いがたい仕草なのは間違いないが、作った側としては微笑ましく見えるのも事実だ。先生はあっという間に空っぽになった器をニコニコしながら受け取ると、お椀の縁すれすれまでお替りをよそった。
 一方、それを横目に見ながら行儀よくサワラの味醂漬けを口に運ぶ向坂は、心ここに在らずといった表情だった。
「どがん? それ、アタシが焼いたっちゃけど?」
「……えっ? あ、ああ。美味しいよ。ちゃんと焼けてるし」
「そう、よかった」
「でも、これっておまえが味付けしたわけじゃねえんだろ。味付けした人の腕がいいんであって、おまえが喜ぶとこじゃねえんじゃねえか?」
「せっからしかねぇ、あんた。刺身こんにゃくにウスターソースかなんか、かけちゃろうか」
「よせ、せっかく美味いのに」
 志村は慌てて手で自分の前の器に壁を作った。誰もホントにやったりしないつーの。
 このアホウが騒がしいことを除けば食卓は和やかだった。
 向坂も出された料理は残さずに平らげたし、ちゃんとご馳走様も口にした。催促めいたことこそ言わなかったけど、おそらく、これでもう帰れると思っていたのだろう。
 だから、アタシが横河先生に向かって「郷土史家というのがどういうことをしてる人なのか興味があるので向坂の大叔父の仕事場を見せて欲しい」と頼んだときには、今度は遠慮のない鋭い目でアタシを睨んできた。
「真奈ちゃん、それじゃ帰りが遅くなるだろ?」
 声はそれまでよりも一段と低く、抑揚はほぼ消え去っていた。それはおそらく彼なりの最大の自己抑制だったに違いない。
「そうやけど、でも、そこ三〇分くらいの話やん。帰りの列車の時間とかあるわけやなかろ? ホテルに門限があるわけでもなかし」
「まあ、それはそうだけど――」
「やったらいいやん。アタシも初めて秋月に来たっちゃけん、少しくらい観光させてくれたってさ」
「いや、俺が言ってるのはそういうことじゃなくて」
「一緒に来るとが嫌やったら、アタシが書斎を見せてもらいよる間、志村と二人でZでその辺をドライブしてきてもよかよ」
「いや、そういうつもりじゃ……っていうか、無理だし」
 向坂は顔をしかめている。
 意地悪を言ってるのは分かっている。向坂は免許を持っていないし、免許取立ての志村ではハイパワーのフェアレディZは手に余る。同じ初心者マークでも高校二年のときから箱崎埠頭で四輪ドリフトの練習をしていたアタシは例外中の例外なのだ。
 それ以前に郷土史家の書斎はどう考えても観光目的の場所ではないのだけれど、それは誰にも突っ込まれなかった。
「じゃあ、よかね。けってーい」
 
 アタシたち三人は一度玄関に回って靴を履き、母屋と納屋の間を通る狭い道を歩いた。
 この通路は横河家の駐車場を兼ねているようで、先生のムーヴは通路の途中に停まっていた。言ってくれれば手前の庭で停めたのに、先生がお構いなしに入っていくのでアタシまでZをここに乗り入れている。
 その奥には小さな箱庭のような庭園があった。
 苔むした岩に囲まれた池の周りには実物大の鶴の彫像が飾られている。これは太宰府天満宮の心字池に飾ってあるものと同じなのだ、と先生はちょっと自慢げに言った。確かに太鼓橋の袂で同じものを見たような覚えがあった。
 大宰府天満宮には実はあまり良い思い出がない。
 と言うのも、心字池に架かる三連の太鼓橋には縁切り橋の言い伝えがあって、中学三年の初詣で亮太と一緒に渡ったら彼の転校で本当に別れることになってしまったからだ。迷信とかジンクスは信じてないアタシだけど、そういう理由でこの橋はぜったいに一人で渡ることにしている。由真とですら一緒には渡らないのだ。
 そんなことを思い出しながら庭について説明(と言うか、自慢)をする先生の話を聞いていた。向坂も相変わらずの仏頂面でそれに聞き入っている。志村だけは予想通りにまったく興味を示していないけど、先生が気づく気配がなかったので好きにさせておいた。
 一通りしゃべって満足すると、そろそろ学校に戻る時間ということで、アタシたちに離れの鍵を預けてムーヴは走り去った。無用心極まりないが田舎ではありがちなことではある。
 明らかに気乗りのしない顔で後ろを歩いてくる向坂を肩越しに確認してから、並んで歩いていた志村の袖を引っ張った。
「なんだよ?」
「頼みがあると。アタシが書斎の奥におる間、向坂くんを手前の部屋で足止めしとって。できたら外のほうがいいっちゃけど」
「……別に構わねえけど」
「でも、ある程度経ったら、向坂くんを中に連れてきて欲しかと」
 さすがに志村の顔が訝しそうに曇る。
「何のために?」
「ごめん、説明しよる暇ないとよ。よかね?」
「胸、揉ませてくれたら引き受ける」
 思わず志村の顔を見返した。
 恐くて近寄りがたいと思われている一方でアタシはこの手のセクハラを言いやすいらしく、バイト先でも道場でもしょっちゅう聞かされる。なので、いちいち腹を立てたりはしない。
 けれど、まさかこの男から聞かされるとは思わなかった。率直に言ってオンナ扱いされているとは思ってなかったのだ。
 何と言い返そうか迷っていると、志村が先にバツの悪そうな顔になった。
「冗談だよ。分かった、いつまでもってわけにはいかないだろうけどな」
「……お願い」
 何と言いようもないので、それだけ言って早足で離れに向かった。
 離れは昔ながらの日本家屋で、ひんやりした空気が漂う土間から一段上がると板張りの八畳間になっている。その左奥は同じくらいの和室だ。離れの半分は倉庫なのだそうで、人が住めるように作ってあるのはこの二部屋だけだ。
 書斎はいかにもそれといった趣きの部屋だった。
 壁一面を埋める作り付けの書棚の前に大きな書斎机が置いてあって、古びたアーム・ライトがついさっきまで使っていたかのように天板の上に張り出している。その周りには脇机やキャスターがついた台、背の低いサイドボードなどが整然と置かれている。書棚の反対側の壁際にも本棚が幾つか並んでいて、その奥には引き出し式のファイル・キャビネットが三段に積み重ねられている。窓際には今どきどこに行っても見ることはなさそうなラジエーター式のヒーターがある。
 書斎机のガラス敷きの天板には先生が話していた通り、数冊の作りかけのスクラップ・ブックが無造作に広げられていた。その脇に古くさいデザインの小さなラジオが置いてある。スイッチを入れてみるとチューニングはFM福岡に合わせてあった。
 誰もいなくなった今でも掃除はされていて、予想していたような埃っぽさや黴臭さはなかった。書棚に並ぶ本以外にはほとんど物は無くなっている。横河先生は遺品の片付けながら見つからない手紙を捜したのだろう。
 それでも、ちょっとだけ空気が澱んでいるような気がしたので書斎の窓と奥の和室の窓を開けた。対になった風の通り道が開くと部屋の中に新緑になる前のやわらかい匂いが流れ込んできた。
 書斎が主の在りし日の面影を残しているのに対して、和室はすっかり片付いてしまっていた。
 残されている家具と言えば小さな三段の小引き出しくらいのもので、あとは脚を折り畳んだ卓袱台が壁に立て掛けてあるだけだった。畳の陽焼け具合から向坂衛が部屋の模様替えというのをしない人間だったことが分かるけど、それだけのことだった。奥の襖を開けてみたけど押入れの中は空っぽだった。
 奥の和室からは入口とは別の土間に繋がっていた。
 薄暗い土間の隅には石造りの流し台と古臭いデザインのガスコンロがあった。昼食のときの雑談でこの離れには井戸から水が引いてあって、トイレと風呂以外はちゃんと生活に必要な施設が備わっていると横河先生が言っていたのを思い出した。
 一時期、母屋に赴くのを面倒くさがった向坂の大叔父はここで五右衛門風呂を沸かそうと考えたことがあったそうだが、火事の危険があるので思い止まったとのことだった。ちなみにトイレは外で済ますつもりだったらしいが、それはうら若き乙女であった先生の大反対で頓挫したらしい。まあ、万事に大らかなアタシでもそれは許さないだろう。
 そんなことはどうでもいい。足早に書斎に戻った。高い背当てのついた椅子に腰を下ろして、スクラップ・ブックを手に取る。
 息を呑みながらページをめくった。
 

2008.11.21 「Change the world」第13章
 
 横河先生の家は田んぼ道から見えたあの大きなお屋敷だった。
 築一〇〇年は軽く越えている平屋建ての母屋は、しかし、城跡近くの武家屋敷跡とは造りが違っていた。昔ながらの農家といった感じだ。何部屋あるのか分からないほどだだっ広くて、その手前に広がる砂利が敷かれた庭もフェンスを立てて土を入れればさっきのソフトボールの続きがやれそうな広さだった。母屋の陰で見えないけど、その背後にも敷地は広がっているようだ。
「さぁさ、ようこそ」
「お邪魔しまーす」
 アタシたちは母屋と離れを繋ぐ廊下の手前にある座敷に通された。
 樫の一枚板で作られた座卓の上には、昼ごはんができるまで、と先生がせんべいやおかき、ほうじ茶の急須とポットを用意してくれていた。アタシは三人分のお茶を淹れて小石原焼の湯飲みを二人の前に置いた。
「ほら、ちゃんとあんたの分もしてやりよろうが」
 アタシが言うと、志村は何を言われているのか分からないような顔をした。
 しばらく、誰も口を開かなかった。
 アタシはわざとだ。志村はおそらく何を喋ればいいのか分からないのだろう。向坂だけが言いたいことがあるような顔をしていて、そのくせに言い出すきっかけをつかめないでいるようだった。
 やっぱり帰ろうぜ、という言葉が素直に言えるタイプではないのだ。
「ねぇ、榊原さーん。お昼の用意、手伝ってくれん?」
 家の中なのにひどく遠くから先生の声がした。
「はーい、いいですよ」
「おまえ、料理なんかできんの?」
 志村が立ち上がったアタシを見上げる。
「昨日、どこに連れてったか忘れたとね?」
「おまえが調理場にいるなんて、聞いた覚えがねえよ。――でもまあ、確かにフロア係が務まりそうな感じじゃねえしな」
「……それ、どがん意味ね?」
「だってよ、おまえ、顔が老けてるから着物なんか着たら、若女将にしか見えねえじゃん」
「なんてッ!?」
 近寄って下段回し蹴りの一発も叩き込んでやりたかったけど、今、こいつと喧嘩するわけにはいかない。
「あんたの分にだけ、たっぷり山葵とか芥子とかぶち込んどってやるけん、覚悟しとかんね」
 憎まれ口を叩きながら目の隅で向坂の表情を見た。お義理な笑みを浮かべているが困惑を感じているのは隠せていなかった。
 声がした方向に向かって屋敷の中を歩いた。裏庭に面した廊下に出たところで思わず声が洩れた。
「うわぁ、すご……」
 しばらく窓の外の景色を見渡した。
 個人の家の敷地だというのが信じられない広さで、生い茂る緑に囲まれた静かな空間だった。まだ暖かいとは言えない季節だけれど、ここは周囲よりもいっそうひんやりとした空気に覆われているような気がした。今風に言うならマイナスイオンが充満しているようにも思える。
 そんな中にひっそりと離れが建っていた。
 母屋に比べればかなり質素な造りだけど、決して手を抜いたものではない。ただし、築年数は相当なもののようで、窓枠は母屋がサッシに替えられているのにこちらは木でできた枠のままだ。ガラスも今どきあまり見ない擦りガラスが入っている。そんな中でエアコンの室外機から伸びるパイプが壁を穿っているのが場違いな感じに見えた。
 厨房――としか言いようのない広さの台所――は裏庭に面したところにあった。先生はだご汁に入れるだんごを作ろうと小麦粉を練っている最中だった。
「裏の離れは誰か住んどらすとですか?」
「ああ、あそこが衛さんが住んどらしたとこ。今のは五〇年くらい前に建て替えられとるけど、昔は同じ場所に藩の座敷牢があったとよ。ほら、よう見たら周りの地面に塀の跡があるやろ?」
 先生が粉まみれの指で指した先を見た。今は土の盛り上がりにしか見えないけど、確かにそれは離れの建物をぐるりと囲むように続いている。
 しばらく先生を手伝って、バイト先でやってるのとあまり違わない作業に精を出した。
 志村にはああ言ったけれど、実際の話、アタシは可愛らしい和服を着てフロアに立つよりも作務衣を着て調理場に立っているほうがよほど似合っている。由真に「大学に受からんかったときはそのまま就職したらいいやん?」と言われているほどなのだ。
 調理の間、先生は脈絡のない飛び飛びな感じで向坂の大伯父、向坂衛について話してくれた。
 終戦の直前、遠縁の親戚を頼って妹の啓子と一緒に疎開してきたこと。折り合いが悪い家族というのが戦死した父親に代わって母が再婚した叔父であること。それが理由で遠く九州の大学に進学し、そのまま、久留米大学の教授で郷土史家だった横河源太郎の門弟になったこと。それが縁で秋月に住むようになり、見合い結婚もしたがその幸せが長く続かなかったことは納骨堂で聞いた話と同じだった。
 向坂衛はどちらかといえば物静かで他人と関わりあいになることを好まず、大学講師という仕事に就いていなければ人前に出るのを躊躇うような人だった、と先生は笑った。
「永一くんは衛さんの若か頃によう似とらすねぇ。衛さんと啓子さんは似とらっさんかったけど」
「そうなんですか?」
「まあ、男と女やけんね。そがん似とっても困るやろうけど」
 確かにそうだと言いたいところだが、これについてアタシは他人のことをとやかく言える立場にない。アタシは博多人形のような典雅な顔立ちの祖母ではなく厳めしい祖父に似ているからだ。
 一通りの準備を終えて、後はだんごの生地が落ち着いてから汁に投入すれば終わりということになった。先生は自家製だというぶどうのジュースをご馳走してくれた。
「向坂くんのお祖母ちゃんって、どがん人やったとですか?」
「そうねぇ……。なんて言うか、堅苦しか人やったねぇ。悪か人やないとやけど、一緒におったら息が詰まるごたる感じでね」
「お兄さんの前でも?」
「衛さんの前でどがんやったかは知らんけどね。ばってん、たった二人の兄妹やけん。――あ、必ずしもそういうわけやないっては聞いてるけど」
「どういうことですか?」
「ほら、さっき言うたろ。衛さんのお父さんが戦争で亡くならしたけん、お母さんはその弟さんと再婚せらしたって。衛さんと啓子さんはお父さんが一緒やけど、他のご兄弟とは違わすとよ」
「へえ……」
 向坂の親族が大叔父に冷淡な理由は、そのあたりにあるのだろう。
「向坂くんから聞いたとですけど、お二人はずっと手紙のやりとりをされとったんだそうですね」
 それは居酒屋での食事中の雑談で聞いた話だった。
 向坂の親族は二人に交流があったとはまったく知らず――向坂の祖母の家は火事で焼けてしまっていて、遺品は入院先の僅かな身の回りのもの以外は何もなかったらしい――向坂衛の訃報が飛び込んできて初めて知ったのだそうだ。
「そうやねぇ。まあ、啓子さんらしいて言うたらそうなんやけど、年に四回、本当に計ったごとして三の倍数の月初めに届くとよ」
「几帳面な方やったとですね」
「冗談半分やろうけど、指導用の教科書に引くアンダーラインも定規ば当てんと引かれんとか言いよらしたね。案外、冗談やなかったかもしれんけど」
「それとに、ここに来るときはいきなりやったとですよね」
「私にも不思議やったとやけど。まあ、人間、何でも理詰めってわけでもないとやろうしね」
 まあ、それはそうだろう。
「手紙ってまだ残っとるとですか?」
「手紙って、啓子さんの?」
 訝られるかなと思ったけど、先生はいかにもこの人らしい、大らかそうな笑顔を浮かべただけだった。
「あるよ。今、私が全部ばスクラップ・ブックに貼りよる。――えっ、そがんおかしかかな!?」
 アタシがよほど意外そうな顔をしていたのだろう。慌てて首を横に振った。
「そういうわけやないですけど。でも、どうして?」
「ずっとここに置いとってもしょうがなかけん、納骨堂に収められるごとしようと思って――って言いたかところやけど、うーん、本当のところはねぇ――」
 先生の目が遠くを見るように細くなった。
「私自身が、読み返しとうなったけん、かな。ずっとお世話しよった言うても他人なんやけん、本当は勝手に読んだらいけんとやろうけど」
「……でも、最後のほうの手紙は先生が読んであげよったとでしょ? 白内障かなんかを患っとらしたって言われましたよね?」
 アタシの助け舟に先生は小さな笑みで答えてくれた。
「そがんやけど……。でもね、正直に言うて、読んであげんかったところもあるとよ。永一くんのご両親と啓子さんが仲が悪かったとは知っとる?」
 小さく頷いた。冷静に考えれば、向坂の友人の従妹という触れ込みのアタシがそんなことを知るはずがないのは分かったはずだけど、先生の口調には他人のプライバシーに踏み込むことへの共犯者を求めるニュアンスがあった。
「そのせいっていうわけかどうか知らんばってん、永一くんと啓子さんも普通のお祖母ちゃんと孫っていう感じやなかったらしかとよね。でも、啓子さんは啓子さんで、それについてはいろいろ悩んどらしたごたってね――」
「それをお兄さんに手紙で相談されとったわけですか?」
 先生は少し首を傾げた。
「そがんわけでもなかとやけどね。なんて言うたらよかとかねぇ――文面から、何か伝わってくるごたる、って言うとかねぇ」
 曖昧に同意を求められても困るけど、言わんとするところは理解できた。
「ほら、さっき<アラジン>の話ばしたろ? あれもね、本当は啓子さんが泣かした理由も知っとるとよ。永一くんが小学生のとき、二人で見に行った最後の映画が<アラジン>やったとたいね」
「そうですか……。そのスクラップブックって、もうできあがっとるとですか?」
「うん、だいたい。ばってんね、実は一通だけ見つからん手紙があるとよ。去年の夏の手紙がね。部屋中、捜したとやけど」
「どがん内容だったとですか?」
「それがねぇ……ようと考えたら読んどらんとよねぇ。来たとは間違いなく覚えとうとやけど、そういえば衛さんから読んでくれって頼まれんかったごたるし。まだボケる歳やないとやけど、物忘れが多うなっていけんね。――っと、そろそろよかかな」
 先生はだんごの生地の様子を見て、満足そうに笑みを浮かべた。
「榊原さん、お椀ば出してもらっとってよかね?」
 話はそこで途切れた。アタシは先生が指差した棚から食器を取り出しにかかった。
 向坂に対して彼の祖母がどんな感情を抱いていたのか、アタシは知らない。
 志村の話で聞いたように、そして今、横河先生の話でも聞いたように、二人の関係は決して心穏やかなものではなかったのかもしれない。ただ、遠い昔に幼い孫と一緒に見たアニメ映画を見て号泣したということは、向坂の祖母にも孫に対して見せてこなかった何らかの感情があった証しではないだろうか。
 だとしたら、それは向坂永一に伝えられるべきではないのだろうか。
 

2008.11.20 「Change the world」第12章
 
 秋月は今でこそ山間の田舎町だけれど、建物には城下町の面影が色濃く残っている。板張りに白壁の塀、町のあちこちに残る石垣の跡、畑の真ん中にポツンと建っている蔵。街並みは年月に晒されてくすんでしまった材木の色で統一されている。小奇麗さとは無縁だけれど、素朴で歴史のある情景は確かに小京都の名にふさわしい。
 横河先生の家は秋月地区の北側にあった。
 学校からは大して離れていない。風向きによっては校庭の喧騒すら聞こえてきそうな距離だ。それなのに志村とゆっくり話せるほど時間がかかったのは、先生の運転が超がつく安全運転だったのと、どう考えても無駄な回り道をしているからだった。おそらく狭い道は避けて走っているのだろう。
 それでも、先生が乗り入れた田んぼ道は車が一台ぎりぎりで通れる狭さだった。
 田んぼの隣には白壁に囲まれたお屋敷があった。
「なんつーか、でかい家だな」
「田舎やけんね。土地だけはあるってことやろ」
「だな」
 ムーヴに続いてZを田んぼ道に乗り入れた。
 小道の行き着いた先は小さな寺だった。檀家以外の人間が来るのがよほど珍しいのか、禿頭の住職はのっそりした仕草の中でもアタシたちに興味深そうな視線を注いでいた。
 アタシたちが(というか、向坂が)何者かを忙しない口調で説明しながら、横河先生は住職よりも率先してアタシたちを本堂の裏手にある納骨堂へと案内した。
「良かったねぇ、遠くから啓子さんのお孫さんがお参りに来てくれんしゃったよぉ」
 短い戒名が記された位牌に向かって、先生はまるで生きている向坂の大伯父に語りかけるような口調で言った。
 向坂が位牌の正面に立ち、アタシと志村はその後ろで位牌に手を合わせた。途中で薄目を開けて志村の様子を窺ってみたら、意外なことに神妙な顔でちゃんと手を合わせていた。
 お参りが終わると、向坂はふうーっと長い息を吐いた。
「ここに収めることは、どうやって決まったんですか?」
「ああ、それは衛さんがそがんしてくれると助かるって、ずーっと言いよらしたとよ。まあ、本当のところば言うなら、ここの住職さんのご好意で入れてもらっとるとやけど」
「そうなんですか?」
「ずっとここに住んどる人は自分の家のお墓があるとやけど、衛さんはそうじゃないけんね。ほとんどウチの家族って言うてもよかくらいやけん、ウチの墓に入ってもらおうかって話もなくはないとやけど、やっぱり、そういうわけにもいかんし」
「そうですね。その……安斎の家の墓に入れる話は、ウチの親戚とはされなかったんですか?」
 横河先生は寂しそうに首を振った。
「衛さんはご家族とはあんまり折り合いが良うなかったって聞いとるけんね。こっちからそうしてくれって言うたら、なんか衛さんば追い返しよるみたいになるし。あっちからもそげな話は出らんかったけん、こっちで納骨させてもらうことにしたとよ」
「そう、ですか」
 家庭内の軋轢は、おそらくどこの家にだってあるはずだ。
 親類縁者の少ない榊原家だって祖父とその実家は長らく絶縁状態にあるし、そのくせに妙に財産があったりするので遠縁の親戚が面倒をかけてきたりすることがある。由真の場合はある事情で家庭崩壊中な上に親族内の人間関係が入り組んでいるし、おまけにアタシの家など比べ物にならない財産がある(彼女の実家は福岡市内で幾つもの病院を経営している)ので、その面倒くささには想像を絶するものがある。
 向坂の家にも同じように嫌気が差すほど面倒で、それでも容易に放り出すことのできないしがらみがあるのだろう。小さく唇を噛み締めている仕草に向坂が静かに憤慨していることが見てとれた。
「ところであなたたち、お昼は食べたとね?」
 先生は露骨に話題を変えた。向坂はその落差に目を白黒させている。
「さっき、葛きりは食べましたが……」
「やったら、ウチで食べていかんね。ちょうど家に帰る用事もあるし、私は五時間目は授業がなかけん、そがん急いで学校に戻らんでもよかけんね」
「いや、でも……もう用事は終わりましたから。これで失礼して、昼は途中でどこかに寄って食べようかと思うんですが――」
「あら、そげんね?」
 先生はいかにも残念そうに言う。
 
 ――ちょっと、何、考えとうと?
 
 胸の中に湧き上がる衝動に、アタシは自分に問いかけていた。
 アタシはただの道案内にすぎない。
 二人の男の子に興味以上のものを感じ、中でも向坂永一という男に――理由ははっきりしないにしても――シンパシーに似た何かを感じているのは事実だ。
 しかし、それはアタシの事情でしかない。
 向坂が遠い九州の地で亡くなった祖母の兄にどんな感情を抱いていても、冷淡な態度をとる親類に憤りを感じていても、アタシが口出しをする余地などまったくないはずだった。率直に言ってアタシもそれについては何も言うつもりはなかった。
 アタシの脳裏を占めていたのは、自分が知らない祖母の一面に触れて混乱する向坂の表情と、民芸店や資料館を見て歩きながら取り繕うようにはしゃいでみせた痛々しい笑顔だった。
 
「――ねえ、先生。向坂くんの伯父さんてどこにお住まいやったとですか?」
 向坂と志村から驚いた気配が伝わってくる。
「衛さんはウチの離れに住んどらしたとよ」
「じゃあ、伯父さんが師事しとらした先生っていうのは?」
「ウチの父親。衛さんは福岡のほうの大学に通いながら、父のところにも来よらしたとよ。で、父が久留米の大学を退官した頃から、一緒に郷土史の本とか書き始めて。父の紹介で同じ大学で講師にならしてからは、ずっとここに住んどらしたねぇ」
「ご結婚は?」
「一回、お見合いでせらしたけど、交通事故で亡くさしてね。それ以来、ずっと独身。私に「どげんや?」っていう人もおったけど、私からするなら衛さんはそがん対象て言うより、歳が離れたお兄ちゃんって感じでねぇ」
「それとに、ずっとお世話はされよったとでしょ? 先生の旦那さんは何も?」
「まあねぇ、ちょっとは妬きよったとかもしれんけど」
「ですよねぇ?」
 先生は可愛らしい照れ笑いを浮かべていた。アタシも合わせて冷やかすように笑った。
「……真奈ちゃん、話が盛り上がってるとこ悪いんだけど」
 向坂が会話に口を挟んできた。
「ん?」
「いや、そろそろ帰ろうかと思って。志村も腹を減らしてることだし。なあ?」
「えっ? いや、まあ……」
 口実にされた志村が慌てている。向坂の視線がそっちを向いた瞬間に志村に大げさに目配せをしてみせた。狼狽しているような目が見返してくる。
 アタシは構わずにわざとらしくポンと手を打った。
「やったら、ここでご馳走になっていったほうがいいやん。甘木の街ん中まで店がないとは来る途中で見たけん知っとるやろ。ねえ、先生?」
 先生は我が意を得たり、というふうにパッと明るい表情になった。
「そうよぉ、せっかく啓子さんのお孫さんが来らしたとに何も出さんで帰したとか言うたら、私も衛さんとか啓子さんに合わせる顔がなかもん」
「あ、でも、それじゃご迷惑だし――」
「なんねぇ、ぜんぜん迷惑とかなかよぉ。ほら、ウチはすぐそこやけん」
「はあ……」
 思ったとおりだ。この男は他人の好意を無下にできたりしない。それは本来は美徳のはずだけど、アタシのような人間の前ではつけ込まれる隙でもあった。
 まだうろたえている志村に今度はウィンクをしてみせてから、二人に「さっさと行くよ」と宣言して先生の後を追った。
 

2008.11.19 「Change the world」第11章
 
 秋月城址とその周辺を散策して学校に戻ったのは、ちょうど四時限目が終わった頃だった。
 約束どおりに横河先生の案内で納骨堂に行くことになり、向坂は先生のムーヴに乗せてもらっていた。志村を助手席に乗せる気はあまりしなかったけど、空いてるのに人権侵害のプラス2に押し込むこともできない。タバコを吸っていいか、という本日七回目のお伺いは一睨みで却下した。いい加減に諦めろ。
「向坂くんって、お祖母ちゃんとなんかあったと?」
 前方を注視しながら訊いた。先生の運転があまりにもおっかなびっくりなので視線を切ることはできない。余所見をしたが最後、間違いなくオカマを掘る。
「なんかって?」
「うん、さっきの校長室での話やけどさ。自分のお祖母ちゃんのことなんに、なんか、よく知らん人のことみたいな言い方やったし。二、三年に一回くらいのペースで九州に旅行に行きよったんをまったく知らんかったってのも、考えたら変な話やん?」
「さあな、俺も詳しいことは知らねえし」
「そうなん?」
「ああ。あの家に出入りするようになったのは――中学んときだから、結構長い付き合いなんだけどな」
「お祖母ちゃん、学校の先生って言いよらしたね」
「俺たちが通ってる高校のな。つっても、入ったときにはもう定年で辞めてたけど。あの祖母ちゃんが現役だったら、俺は間違いなく英語赤点で落第だった」
「英語だけやなかろうもん」
「おまえに言われたくねえよ」
 いちいちムカつく男だけど、悲しいことに否定できない。
 ん、待てよ。何か変だな。
「ちょっと待って。なんであんた、向坂くんのお祖母ちゃんちに出入りしようと!?」
「なんか変か?」
「変やろ。向坂くんの家やったらともかく。――あ、二世帯同居やったらアリか」
 向坂の態度からアタシは何となく向坂と彼の祖母は別に暮らしていて、普段の交流もなかったのだと思い込んでいた。しかし、それなら尚のこと、向坂が祖母の九州行きを知らなかったというのは不自然に思えた。兄である衛氏と手紙のやり取りだって、祖母が目の前で書いていたことはなくても、家に届いた返信を目にしたことくらいあってもよさそうなものだ。
「二世帯じゃねえよ」
 志村が言った。
「どがん意味?」
「あの家に住んでたのは祖母ちゃんと永の二人だけ」
「その……ご両親は? 亡くなったとか?」
「いや。どっちも生きてるよ。お袋さんには会ったこともある」
 そう言って、志村は「……ああ、そういえば祖母ちゃんの病院で親父さんとも会ったっけ」と付け加えた。
「それとに、向坂くんはお祖母ちゃんのところに預けられとったわけ?」
「まーな、その……どっちもあんまりちゃんとしてないんだよな。親父さんのほうはよく知らねえけど、永が物心ついたときにはもう家にいなかったって言ってたし」
「お母さんは?」
「――詳しいことは知らねえ。ただ、祖母ちゃんとは仲が悪かったんだってさ」
 志村の口調にはそれ以上の何を知っているようなニュアンスがあった。しかし、言い難そうでもあった。アタシも無理には訊かなかった。
「とにかく、一家団欒って言葉と無縁なのは間違いねえな」
「なるほどね。ねえ、最初の話に戻るっちゃけど、向坂くんとお祖母ちゃんの関係が微妙なんは、それと何か関係あると?」
 志村は皮肉っぽい笑みを口許に浮かべた。
「どうなんだろうな。ただ、なんつーか、普通の祖母ちゃんと孫って感じじゃなかった。フツーは祖父さん祖母さんにとって、孫は目に入れても痛くないっていうだろ?」
「言うね。ホントに入れたら痛かと思うけど」
「そうだろうけどよ。ウチなんかまさにそうでさ。俺は三男なんでそうでもなかったけど、一番上の兄貴が生まれたときなんか凄かったらしいんだ。キンキラキンの節句の兜が今でも納屋にあるけど、これがまあ、悪趣味極まりないシロモノなんだわ」
「へえ……」
 言わんとすることは分かる。しかし、初孫だったアタシの雛人形もちょっと度を越した豪華さなので、志村の祖父母のことをとやかく言える立場にはない。
「それで?」
「いや、フツーって言ったって、その家によって違いはあると思うけどさ。永のところは異常っつーか、変わってるんだよな。初孫ってだけじゃなくて、たった一人の孫なんだぜ。永のお袋さんは一人娘だし、永には他に兄弟はいねえんだから。それなのにな――」
「お母さんと一緒で仲が悪かったと? 坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、やないけどさ」
「いや……仲が悪いっていうのは正しくねえな。それだったらウチのほうがよっぽど酷えよ。なんつーか、他人以上で家族未満、みたいな感じ。家族っていうには距離があり過ぎるけど、だからって他人って呼ぶには、逆に遠慮とか気遣いみたいなもんがない。――ま、他人の俺が知らないだけかもしれないけど」
 それはどうだろうか。
 アタシは志村の普段の姿を知らないが、この性格だったらまるで家族の一員のような顔で――あるいはそれ以上の厚かましさで――他人の家に出入りしていそうだ。見た目よりはちゃんと他人の言動に目を配れるところもある。その志村が長年に渡って出入りしている家のたった二人の家族の姿を見誤るとは思えなかった。
 向坂の横顔にうっすらとしたヴェールのように重なる翳りの一端が見えたような気がした。
 

2008.11.18 「Change the world」第10章
 
 アタシたちは向坂が訪ねた先生の授業が終わるのを、秋月中の校長室で待っていた。
 学校のあらゆる施設の中でも、アタシにとっては問題を起こしたときしか出入りした覚えがないのが校長室だ。三人の中で優等生だと思われるのは向坂だけなので、おそらく志村はアタシの同類だろう。現に志村はどうも落ち着かないと言っていた。
「よう、永。まだ先生ってこねえの?」
「そろそろだろう。もう授業も終わることだし」
 いかにも退屈そうに言う志村に、向坂が何事もなかったかのように答える。
 こうやって見てると二人は親友――だろう、多分――というよりも兄弟のように見える。落ち着いて物静かな兄とやんちゃな弟。どこかの漫才師ではないが、弟のほうが発育が良くて逆転現象を起こしている兄弟は決して珍しくない。
 けれど、時折、志村のほうが世慣れた感じに見えて年上のように思えることもあるのが不思議な感じだ。
 向坂が腕時計に視線を落としたのとチャイムが鳴ったのはほぼ同時だった。開け放たれた窓からガラガラガラッと一斉に椅子を引く音が入り込んでくる。静かだった校内の物音がボリュームのつまみを回したようにスッと大きくなる。何人かで上の階の廊下を走るドタドタという音が響く。
 しばらく待ってるとガラガラっと音がしてドアが開いた。
「――ああ、あなたが永一くんねぇ?」
 年配の女性は入ってくるなり、まるで自分の孫が訪ねてきたかのように表情を緩ませた。いかにも学校の先生らしい化粧っ気のなさとシックなダークブラウンのワンピース。アタシの中学のときの担任もこんな感じだった。
「横河先生ですか?」
 向坂は立ち上がって小さく礼をした。アタシも志村を促してそれに続いた。いかにも面倒くさそうにしかめられた顔は無視。
「この度はいきなりお邪魔してすいません」
「あらあ、啓子さんから聞いとった通りやねぇ。歳のわりにえらいしっかりしとるって」
 横河先生の声のトーンが思いっきり跳ね上がって、向坂は見た目ではっきり分かるほどたじろいでいた。
 肘で志村をつついた。
(……啓子さんって誰ね?)
(永の祖母ちゃんの名前)
「その――大伯父が大変お世話になったと聞いてます。ありがとうございました」
 向坂が言うと横河先生はパタパタと手を振った。
「なん、お礼ば言うとはこっちんほうよぉ。お墓参りに来てくれるとか、ぜんぜん思っとらんかったけんねぇ。――ばってん、不思議かもんよねぇ」
「何が……ですか?」
「ほら、形の上では衛さんは永一くんのお祖母ちゃんのお兄さんやけん、そがんふうにお礼ば言うてくれるとが正しかとやろうけど、私たちからするなら、遠くからわざわざ衛さんば迎えに来てくれらした感じもするとよ。お礼ば言うとはこっちかもしれんって」
「はあ……」
「そっちのお二人は?」
 先生がアタシたちのほうを見た。向坂はアタシのことを九州在住の志村の従妹だと紹介した。話がややこしくなるのが嫌だったのだろう。確かに昨日知り合ったばかりの女ですとは言いにくい。
 先生は志村に向かってニッコリ笑いかけた。
「こげん田舎でビックリしたやろぉ? せっかく来たとに、若か人が楽しむごたるところは何もなかもんねぇ」
「ええっと、まあ、そう――ッ!」
 バカが、肯定する奴がどこにいる。満面の笑みで志村の顔を覗き込みながら、脇腹を指先で軽くつねりあげた。
「いえ、秋月に来るのは久しぶりなんで。ずっと前から、機会があったら案内するって約束してたんです。――ねえ、マサハル兄ちゃん?」
「……そうそう。キレイだって聞いたもんで」
「あら、もうちょっとで桜も咲くとやけどねぇ。そしたら、本当にキレイなんよぉ」
 恨めしそうな視線も無視。
 納骨堂には昼休みと先生の受け持ちの授業がない五時限目に連れて行ってもらうことになって、それまでの間、アタシたちは近くで時間をつぶすことになった。
「あの、すいません――」
 向坂が言った。出て行きかけた先生が振り返った。
「なん?」
「さっき、僕のことを祖母から聞いたとおっしゃいましたよね。祖母とは面識があるんですか?」
「啓子さん? ああ、何度かこっちに旅行で来らしたことがあるとよ。それにそう……ここ何年かの衛さん宛ての手紙は、私が読んであげよったけんね。ほら、衛さんは白内障も患うとらしたけん、自分では読まれんかったとよ」
「そうですか……」
「衛さんのことば知らせたときに、啓子さんも亡くなったって聞いたときはビックリしたとよ。私たちは啓子さんのご家族はまったく知らんかったし、向こうもそうやったろうけんね」
「そうですね。……祖母は、一人で?」
「いつも一人でフラッと。だいたい、いきなり衛さんに電話があって「明日から行くけど泊めてもらって良いか」って感じやったねぇ。「駄目って言っても聞かんのだから良いかも何もあったもんじゃない!!」って衛さんがブツクサ文句言いよらしたけど」
 向坂は微妙な表情をしていた。
 アタシには彼の祖母のことは何も分からないので、それがごく普通の行動であるのか、あるいはそうでないのかなど知る由もない。ただ、志村の表情がいかにも意外そうだったので何か違和感のようなものがあるのだろうとは思った。
「祖母は毎年、来てたんですか?」
「そういうわけやなかけど。都会の学校の先生やけん、そがんしょっちゅう休みはとれんかったとやろうね。それでも三年に一回くらいは来よんさったよ」
「最後に来たのは?」
「一昨年のちょうど今ごろ……そうそう。春休みの児童映画上映会んとき」
「児童……映画上映会?」
「甘木の教育委員会主催のイベントでねぇ。去年から著作権がどうとかいうてせんごとなったとやけど、それまでは毎年、春休みに市民会館で子供向けの映画ん上映ばしよったとよ。それば一緒に見に行ったけん、間違いなかよ」
「祖母が映画を!?」
「最初は誘っても来んかったとに、その日になって見に行くって言わしてね。よっぽど暇やったとかなって思いよったとやけど、映画が終わったらわんわん泣かすもんだけん、こっちがビックリしたとよねぇ」
「えっ、あの祖母ちゃんが!?」
(いや、それはあんたの台詞やなかろうよ)
 思わず志村を睨んだ。しかし、バツが悪そうな顔をしながらも、志村はそれが不可思議で納得し難いことなのを隠そうともしなかった。そして、それは向坂も同じだった。
 二人がフリーズして会話が途切れた。
「映画は何やったとですか?」
 何となくその言葉の後を続けた。横川先生は映画はディズニーの<アラジン>だったと答えた。
 授業開始のチャイムが鳴って、先生はアタシたちの反応を訝りながらも「また後で」と言い残して校長室を出ていった。そこにいる理由がなくなったので、アタシたちも校長室を後にした。

 アタシたちは校庭の隅、杉の馬場通りに面した塀の裏側に沿って秋月城跡のほうに歩いた。
 主要な建物は当の昔に焼失してしまっているらしいが、今でも城門や櫓の一部などが残っていて、今は城というよりは昔の武家屋敷跡といった趣きだ。鬱蒼とした緑と苔むした石垣に囲まれていて、時折、思い出したように吹く風はひんやりとしている。
 アタシの隣に志村が、後ろから向坂が着いてきていた。
「<アラジン>って、魔法の絨毯に乗って四〇人くらい子分を連れた泥棒の話だろ?」
「あんた、それって後ろ半分は<アリババ>やん」
 ギャグだと思っていたら志村は真面目そうな顔をしていた。アホか、こいつは。
「そんなに感動的な話だったっけ?」
 志村はため息混じりに訊いてきた。
 アタシも<アラジン>を見たのはずいぶん昔の話なので、粗筋まで覚えているわけではなかった。むしろ、アタシの中では主題歌の<ア・ホール・ニュー・ワールド>のほうが記憶に残っている。
「それ、どんな曲?」
「タイトルは知らんでも、聞いたことはあると思うっちゃけど。グラミーとか獲ったけんね」
 鼻歌でサビのところを歌ってみせた。志村は記憶を探るように眉根を寄せていたけど、残念ながら探し当てたようには見えなかった。
「ふーん。まあ、いいけど。なあ、永――」
 志村は背後を振り返った。そして、大声をあげた。
「どうしたんだよ、永!?」
 アタシもそれにつられて振り返った。
 向坂の顔は完全に血の気を失っていた。もともと血色のいい男ではなさそうだが、それにしても今にも倒れてしまいそうだ。アタシと志村は慌てて彼のところに駆け戻った。
 口々に大丈夫かと問いかけるアタシたちに、向坂は力のない笑みを浮かべてみせた。
「……なんでもない。ちょっとな」
「ちょっと何だよ。こいつの運転が荒っぽくて車酔いでもしたのかよ?」
 ホントにぶん殴るぞ、こいつ。
「あんたねえ、車降りてこんだけたって、今ごろそがんことなかろうもん。ねえ、向坂くん、ホントにどうしたと?」
「いや、本当になんでもないんだ。すぐに治る。――さ、行こうか」
 向坂はそう言って、もう一度力なく笑った。
 

2008.11.17 「Change the world」第9章
 
「あー、面白かった」
 校庭から引き上げる中学生たちを遠目に見ながら、コンビニで買ったコーヒーに口をつけた。
「おまえ、野球に詳しいのな」
 志村は二本目のタバコに火をつけて、クスノキの大きな幹に身体を預けていた。
「そっかな? これくらい、普通やないと?」
「バカ言え。どこの女子高生がバスターの意味なんか知ってんだ」
 ちなみにバスターとは”bustered bunt”の略で、意味としては”偽装バント”ということになる。その名の通り、バントの構えをしておきながら、いざピッチャーが投球動作に入った瞬間に一転、ヒッティングの構えに移る打法のことだ。
「そうかもしれんけど。ウチの父親が野球好きやったけんさ。もう、シーズンになると家に野球解説者がおるとと一緒やったけん、せからしかったぁ」
「……ふうん、そうか」
 志村は少し訝しそうにアタシを見た。何なのだろう、いったい。
「なあ、聞いていいか?」
「なんね?」
「おまえ、カレシとかいねえの?」
 意外な質問に、ほんの一瞬、「それが?」と訊き返しそうになった。
 前の彼の頬を思いっきり引っぱたいた夜から、あっという間に一ヶ月近くが過ぎていた。
 憎みあって別れたわけじゃない。どっちかが心変わりしたわけでもない。何事もなければそのままずっと続いていたはずだったのだ。そして、そうであればアタシは今日、ここにはいないはずだった。懸賞好きだった彼が当てた映画の試写会がまさに今日の夕方だったからだ。
 預かっていた当選ハガキは別れたその日の夜に燃やしてしまった。
 志村はアタシから目を逸らして、校庭の向こうの城跡を囲む緑を眺めていた。
 興味本位で訊いているわけではなさそうだった。それに、アタシは誰かに話を聞いてもらいたいと思っていた。できれば、身近な知り合いではない誰かに。
「……うーん、実は別れたばっかりなんよね」
 志村がこっちを向いた。
「一年――いや、去年の夏からやけん、一年半くらい付き合うたんかな。自分で言うとも何やけど、かなりラブラブやったんよ」
「だったら、どうして別れたんだよ?」
「東京に行くんて」
「東京!?」
 意外そうな声。
「就職でね。会社自体はこっちなんやけど、採用の条件があっちに配属でもオーケーってことやったんよ」
「そんなことあるんだな。でも、だから別れるってのも気が短すぎじゃねえの。遠距離恋愛とかでも良かったじゃんよ」
「……嫌よ、そんなん」
 同じことは周りのいろんな人から言われた。そうでなければ、逆に彼に行かないでくれと言えばいいじゃないかと。
 そんなことができるんだったら最初からそうしている。
 心が狭いと言われても否定はしない。でも、アタシには好きな人と離れ離れになりながら関係だけを続けるなど想像もできない。自分が何故、そう思ってしまうのかはどうしても分からなかった。
 腫れ物に触るような気配が伝わってくる。無粋な男だと思っていたが、そういった気遣いはできるのだろう。言葉を選んでいるような沈黙の後、志村は思い切るような小さな息を吐いた。
「おまえってさ、誰にでもこんな感じなの?」
「……こんな感じって?」
「昨日知り合ったばっかりの男二人とドライブなんか、普通はしねえよ。親切とかそういう話じゃねえから。無用心にも程があるぜ」
「あ、心配してくれようと?」
 苦笑いが洩れた。
「それとも、そんなつもりなん?」
「バカ言え。誰がおまえなんか襲うか」
 志村が短くなったタバコを捨てるところを捜してキョロキョロした。アタシはコーヒーを飲み干して缶を渡そうとしたけど、そのときには吸殻はスニーカーの踵の下だった。
「まあ、アタシにしたら珍しかかもしれんね。人見知りするほうやし」
「おまえが!?」
「そがん、ビックリすることないやん」
「ああ、悪い。でもよ、それにしてはなんつーか、馴染んでるよな」
「……馴染んでるって、誰と?」
「永と。あいつ、あんまり初対面の人間と話したりしねえんだよな。まあ、そうじゃなくても無口なほうだけど」
「ふうん――」
 どうなのだろう、と思った。
 向坂と亮太に似ていると思ったのは、おそらくアタシが寂しいからだ。
 今の彼と別れた痛手を和らげるために、昔の彼氏との楽しかった出来事を思い出す。亮太を代用品にしているようで自分でも嫌だったけど、アタシには他に心を紛らわす方法がなかった。アタシが向坂永一に感じた何かも、おそらくは同じ文脈の中にあったはずだ。
 しかし、彼がアタシに何かを感じているとは思っていなかった。
「……向坂くんがどう思っとうかは知らんけどさ。アタシが人見知りせんかったんは、あんたたちが前の元彼に似とうからかもしれん」
「転校生がどうとか言ってたやつ?」
「そう。見た目がってわけやないけど――雰囲気がね。優しそうやし、頭も良さそうやし。それに、なんて言うとかな。アタシともどっか似とう気がするんよ。よう分からんけど」
「おまえと永のどこが?」
「やけん、分からんって言いよるやん」
 説明したところで志村には理解できないだろう。いや、おそらくアタシだって、ちゃんと筋の通った説明はできないはずだ。
 何か言いたそうな目をしていたが、志村は何も言わなかった。
「別にいいけどよ。――あれっ?」
 校舎のほうから向坂がアタシたちを呼んでいた。
「おーい、お茶を出してくれるんだって。二人とも来いよ!!」
「だってよ?」
 志村は返事の代わりに吸いかけのタバコをかざして、アタシには「ちょっと待ってくれ」と言った。しばらくの間、志村は三本目のタバコを煙に変える作業に没頭した。
「ところでおまえ、さっき――」
「なんね?」
「あんたたちが元彼に似てるって言ったよな」
「そうやったっけ?」
 笑ってごまかそうかと思ったけど、向けられている真面目な顔にそうすることができなかった。
「意外とちゃんと聞きようやん」
「茶化すな。永は分かったけど、俺はどこか似てるのか?」
 たち、という言葉を使ったのは語弊があったかもしれない。志村は亮太にはまったく似てないし、逆に向坂は別れたばかりの彼にはまるで似ていないからだ。
「あんたはどっちかって言うと別れたばっかりのオトコに似とう。――やけんかな、あんたが言うことすることにいちいちムカつくんは」
「何だよ、それ」
「あははは、冗談。ほら、向坂くんが呼びようよ」
 無理に笑いながら校舎を指差した。向坂が手持ち無沙汰にアタシたちを待っている。
 志村を待たずにさっさと歩き出した。背後からはまだ何かを問いたげな空気が漂ってきていた。
 しかし、それに気づかなかったふりをした。
 

2008.11.16 「Change the world」第8章
 
 秋月中学校は秋月城址の敷地の一角にあった――というより、今は中学校の敷地の隣に城址があるといったほうがいいかもしれない。
 杉の馬場通りという、いかにも城跡らしい趣きの堀と石積みに面した小道からZを乗り入れると二階建ての木造校舎が目に入ってくる。春先のやわらかい陽射しに照らされた校庭は広々としていて、裏山と呼ぶには小さな斜面は新緑になる前のやわらかな緑で覆われている。遠くには飯塚地方と秋月を含む筑後地方を隔てる山々がなだらかな稜線を描いているのも見える。
 向坂の大伯父がお世話になっていたという女性がここで教師をしていて、お墓もその女性の自宅近くにあるらしい。わざわざ時間を取らせるのも悪いとのことで、向坂は場所だけ訊いてまっすぐ墓参りに行くつもりだったらしいが、女性はぜひ会って話がしたいから学校を訪ねてくるようにと言ったのだそうだ。
 向坂が挨拶を済ませてくる間、アタシと志村は校庭に面した大きなクスノキの木陰で待つことになった。
「うっわー、今どき木造校舎とかあり得ねえ」
 言葉とは裏腹に感嘆したような口調だった。
「田舎に行くとわりとあるっちゃけどね。でも、こういうのもよかて思わん?」
「思わねえよ」
 ふん、ホントに風情ってものを理解しない男だ。
 校庭では男女混合でソフトボールをやっていた。
 クラスマッチの季節ではないはずだけどその割には真剣にやってるようで、審判は若い男性教師がちゃんとプロテクターを着けて勤めている。ピッチャーをやっているショートカットの女の子は本格的なウィンドミルで投げていた。
 スコアボードによれば七回の裏、ルールどおりならラスト・イニング。スコアは一回の表の一点だけ、いわゆるスミイチというやつだ。ノーアウトでランナーは一、三塁。一塁の女の子はあまりやる気があるように見えないので、フォアボールで出塁したのかもしれない。一方、三塁の男の子はいかにも野球少年という感じだった。これまで何とか凌いできたのが、最終回でついに捉まったというところか。
 次のバッターはほっそりしていてパワーがあるようには見えないが、スイングは結構鋭い。見るからに小器用なタイプだ。バッテリーからしてみれば、この場面で迎えるには一番嫌なバッターだろう。セーフティ・バントはもちろん、内野安打でも三塁からホームに突入されかねない。
 キャッチャーがタイムをとって、内野に前進守備の指示を出した。驚いたことにマスクを被っているのも女の子だった。男子を差し置いてバッテリーを組んでいるあたり、ひょっとしたら二人は本格的にソフトボールをやっているのかもしれない。
 どちらを応援する謂れもないけど、心情的には同じ女子を応援したくなる。
「ねえ、バッター、どがんすると思う?」
 志村はタバコの煙をぷかりと吐き出しながら「俺だったらスクイズに見せかけてバスター」と答えた。
 まあ、間違いなくそうくるだろう。バッテリーがバントを嫌ってピッチドアウトを多用すれば、どうしてもカウントが悪くなっていく。フォアボールでも押し出しにはならないが、次のバッターと勝負できるのなら最初から満塁策を採る場面なので、それは選択肢に入っていないはずだ。
 しかし、そうだとすれば、どこかでストライクを取るためにボールを”置き”にいかなくてはならなくなる。そこをバントの構えから一転、バスターで叩く。前のめりになっている内野守備陣の頭上を越えれば走者一掃のサヨナラタイムリーだ。一塁の女の子が全力疾走するとは思えないけど。
「うーん、どう考えたっちゃ、バッター有利やねぇ」
「だな。ところでおまえ、こういうの好きなの?」
「特別に野球とかソフトボールがってわけやないけどね。どっちかって言うと、女子が男子を倒すっていうシチュエーションが燃えるかな」
「へぇ……」
 審判がプレイを宣告した。グラウンドに緊張感が走る。
 一球目。力みがあったのか、ボールが大きく浮いて、キャッチャーの子が伸び上がるように手を伸ばして何とかワイルドピッチを逃れた。落ち着け、という身振りにピッチャーの子が小さく肯く。
 二球目は落ち着いて内角低めへのストレート。バッターは一瞬、ヒッティングにいこうとしたが思い止まった。カウントはワン・エンド・ワン。
 低めの球はバントがしにくいし、バスターだとゴロを打つ可能性が高い。選択としては正しい。ただし、ウィンドミルは低めのボールのコントロールが難しいので、下手をすればただカウントを悪くするだけの可能性がある。
 三球目、外角の低いところへ。際どいコースだったがバッターはしっかり見送ってボール。
「あいつ、なかなかやるじゃん」
「そうやね」
 四球目、五球目は再び低めの際どいコース。バッターはそれをことごとくカットする。ファウルでストライクカウントが進んでツー・エンド・ツー。
 これまであまりサイン交換に時間をかけなかったバッテリーも、さすがに少し間を取って次の攻め手を打ち合わせる。ここからではどんなサインを出してるのかは分からないが、せわしなく手が動いているのは見てとれる。
 ストライク先行の今、定石どおりならここはウェストを挟んでバッターを揺さぶる場面だ。キャッチャーは当然、その作戦を選択してミットをストライク・ゾーンから外す。
 ところが、ピッチャーは首を横に振った。
「……何するとかな、ここで」
「さぁな」
 目顔でのやり取りの後の六球目。
「うわぁ、度胸あるねぇ……」
 ピッチャーの子の強心臓に度肝を抜かれた。彼女がこの場面で投げたのは、一歩間違えばデッドボールになりかねない内角高め――というよりバッターの胸元へのストレートだった。
 バントができない球ではないがバスターのつもりで待っていては対応しにくいし、これまで何球もかけて低目を意識させてからなので、バッターは恐怖心からとっさに身体を引いてしまう。実際、バッターは後ろにひっくり返るように尻餅をついた。味方のベンチからは失笑、敵のベンチからは嘲笑が巻き起こる。
 ピッチャーは投げ返されたボールをキャッチしながら、得意そうな笑みを浮かべて小さく舌先を覗かせた。
「――たぶん、次で決まるぞ」
「えっ?」
「いいから見てろ」
 何を根拠にそう言ってるのか、アタシには分からなかった。志村はピッチャーではなくバッターボックスの男の子をジッと見ていた。
 七球目。志村が言わんとしたことの意味が理解できた。
 放たれたのは何とチェンジアップだった。それだけならバントの構えだったバッターにとっては打ち頃の緩い球が来たに過ぎない。しかし、バッターはバントでもヒッティングでもない中途半端な構えで居付いていた。
 ピッチャーの狙いはこれだったのだ。低めのボールで意識を引っ張っておいて胸元へのブラッシング・ボール。構えを崩すという効果もあるだろうが、それよりも、これでバッターの意識が変わった。
 ――舐めた真似しやがって。
 彼の中からバスター・エンドランで厭らしく攻めるという選択肢は消えて、完全にヒッティングモードになった。ところが、打ち気に逸ったところへ飛んできたのは速いストレートに慣れた目にはタイミングが取りづらいチェンジアップ。慌ててバットを振ったところでジャストミートはない。志村はそれをバッターの構えから見て取っていたのだ。
 バッターはかろうじてバットをボールに当てることはできた。
「あーあ、終わった」
 志村が言った。
 その言葉のとおり、カコンという間の抜けた音と共に舞い上がったボールがピッチャーのグラブに収まってワンナウト、ホームへの返球で三塁ランナーがタッチされてツーアウト、ベンチの走れコールにしぶしぶスタートを切っていた女の子が一、二塁間で挟まれてスリーアウト。
 終わってみれば、プロ野球でも滅多にお目にかかれない見事な三重殺だった。
 

2008.11.14 「Change the world」第7章
 
 朝倉市というのは実在しない。
 と言ってしまうと大いに誤解を招くのだけれど、今の段階では存在しないのだから仕方がない。実はほんの一週間程度後に”平成の大合併”とかいうやつで誕生する予定の新しい市の名前なのだ。アタシたちが訪れた今日の時点では、そこは甘木市という名前だった。
 しかし、それがアタシに大きな誤解を招いていた。
「で、まずはどこに行くんだよ、永」
 志村が言った。
「とりあえず、祖母さんの兄貴の骨が納めてある納骨堂だな。――真奈ちゃん、秋月ってどの辺だか分かるかい?」
「秋月!?」
 おうむ返しに聞き返していた。向坂は目を丸くしている。
 朝倉というのは福岡県の中西部、耳納連山の北側の麓に広がる広大な平野の名前でもある。この一帯を指して甘木・朝倉地方という言いかたもする。アタシはその印象から、向坂の大叔父が住んでいたのは甘木市の街中だと勝手に思い込んでいたのだ。
「どうかしたのかい?」
「いや、まあ、あそこも朝倉市になるのは間違いなかけど……」
 行ったことはないが、今日のドライブに備えて近隣のロードマップを眺めるくらいのことはしていた。
 秋月というのは、甘木市の北側の山の中にある町――というか、規模的には村――の名前だ。かつての黒田藩の城下町ということで「筑前の小京都」なる二つ名もある。由真が小さかった頃に家族と訪れたときのビデオを見たことはあって、何となくだけれどイメージだけは持っていた。桜の季節もそれなりにキレイらしいが、アタシの中では紅葉の季節に訪れる観光地だ。
「遠いのかよ、そこ」
「ここから山道を七、八キロ」
「……うええ、マジかよ。永、ちょっとタバコ吸ってきていい?」
「どこかで休憩しよう。真奈ちゃん、コンビニに寄ってくれるかな」
「りょーかい」
 高速を走っているときにもブツクサ言ってたが、喫煙者というのは我慢させると露骨に機嫌が悪くなる生き物だ。しかも、移動の車中でアタシは六回に渡る「吸っていいか?」のお伺いを全て却下している。
 Zを目についたセブンイレブンに乗り入れた。
 向坂がこれから訪れるところに電話をかけている間、アタシと志村は買い物を済ませておくことにした。車中でモノを食べるなと持ち主からは言われていたけど、片付けておけば問題はあるまい。どうせ、アタシが「食べかすを片付けないなら部屋で食べるな」と怒鳴ることへのささやかな反抗にすぎないのだ。
「あんた、何がよかと?」
 さっさとカゴを手にとって訊いた。
「何がって――おい、カゴ持ってやるから寄越せよ」
「別によかよ。アタシが持っとくけん、あんた、ジュースとかお菓子とか選ばんね」
 そう言いながら自分のブラック・コーヒーをカゴに放り込んだ。
 何か言いたそうな顔の志村は、しかし、何も言わずにコーラのペットボトルとスナック菓子を手渡してきた。それもカゴに入れた。向坂は何を飲むかと訊いたら「何でも飲む」との答えが帰ってきた。棚をざっと眺めたら新発売のお茶があったのでそれを選んだ。食べ物の好き嫌いがあるようではなかったが、甘い飲み物を好むようには見えない。もちろん、アタシが勝手に抱いているイメージでしかないけど。
「おまえって、わりと世話好きなほう?」
 レジで支払いを済ませていると、志村が怪訝そうな目で訊いてきた。
「アタシ? うーん、どうやろ。別に普通と思うけど。なんで?」
「いや、普通、こういうのって男が持つだろ。女だってそれが当たり前だって思ってるし」
「そうなん?」
 まあ、そういう女子もいるだろうが。確かに由真はぜったいに自分では持たない。
 コンビニのビニール袋もアタシが持とうとしたけれど、志村は横からすばやく手を出してかっさらっていった。
 向坂の電話はまだ続いていた。志村はアタシに目顔で断わってタバコに火をつけた。風上に回ろうかとしたら、先に志村が風下のほうに動いた。
「ああ、でも、中学校のときの彼氏が言いよった」
 志村が「ん?」と言いながらアタシのほうを向く。
「その人、転校生であっちこっち行っとったんやけど、九州の女の子はやたら甲斐甲斐しかって」
「だよな。昨日だって、何も言わずに永の分の料理とか取り分けてたし」
 あんたの分も取り分けてやったろうが、と思ったが口には出さない。
 ひょっとして、志村が拗ねてる原因はアタシが向坂に向ける態度と自分の扱いの落差にあるのかもしれない。差別したつもりはなかったが、無意識に出てしまっていた可能性はある。
 まあ、それは決してアタシのせいではないはずだけど。
「別に普通のことっちゃけどね。九州男児ってホント何もせんとよ。だけん、女が何でんせんといけんし、それが当たり前になっとるわけたいね」
「尽くす女ってことか?」
「そう言うと、ちょっと違うっちゃけどね。男がしっかりしとらん分、女がしっかりしとるんよ。ウチの父親も仕事はともかく、家じゃ何の役にも立たん人やったし」
「それで許されるのか」
 別に許されるわけではない。そうしなくては家庭のことが回らないからそうするだけだ。だいたい九州男児というと男っぽくて亭主関白なイメージがあるが、九州の男は総じてわがままで子どもっぽいし、家では奥さんに頭が上がらない人が多いのだ。あれは薩摩隼人とイメージが混ざっているとアタシは思っている。もちろん、その薩摩隼人だって鹿児島に行けば実像とは違うだろうから、結局はイメージの一人歩きでしかない。
 タバコを吸い終わった志村と二人、Zのところへ歩いた。
「俺、九州の女の子と付き合いてえ」
 志村は微妙な視線をアタシに向けてきた。――何だろ? アタシはあんたが誰と付き合おうと別に構わないんだけど。
 ただし、釘は刺しておかなくてはなるまい。
「言うとくけど、こっちの子はみんな気性が激しかけんね。怒らせたら怖かよ?」
「それはおまえを見てりゃ分かるよ」
「……なんて?」
 軽く小突くくらいのつもりでショートフックを放った。ところがタイミングが良かったらしくて、脇腹の肉の薄いところに拳がもろにめり込んだ。志村は顔を歪めて身体をよじった。
「いってえッ!!」
「大げさな声出さんよ。ちゃんと寸止めしたろうが」
「バッカ言え、当たってるつーの。あー、いてえ。この暴力女!!」
「言うたろ、怒らせたら怖かって」
 何故か、素直に謝る気はしなかった。代わりに澄ました顔で拳をかざしてみせた。
 恨めしそうな目をしていた志村は、アタシの機嫌を伺うような表情のままでZに乗り込んだ。小声の「……オンナのすることじゃねえぞ」という呟きは聞こえなかったことにしておいてやろう。
 

2008.11.13 「Change the world」第6章
 
 ホテルで二人をピックアップしてZを都市高速に乗せた。
 福岡都市高速二号線は九州自動車道の大宰府インターチェンジに直結しているので、ETCつきのこの車だとそのまま朝倉まで停まる必要もなくストレスフリーで走り続けることができる。それに3.5リッターV6エンジンのパワフルさにはアクセルを踏む楽しさもある。別れた彼のMPVも悪い車じゃなかったし、彼の兄が乗っていたシヴォレー・カマロも運転してみれば面白かったけど、Zはやはり別格だ。
 むしろ、アタシのストレスは2プラス2の狭苦しい後部座席に押し込まれた志村が、いつまでたってもブツブツと文句を垂れるのをやめないことだった。
「そんでよ、いつになったら着くんだ。その朝倉とかいうとこ」
 志村が言う。身を乗り出さんばかりの勢いだけど、実際にはプラス2ですらない荷物置場のようなシートではまともに座ることもできず、横向きに座らざるを得ない。身動きすらロクにとれていないだろう。
「もうすぐって。ほら、そろそろ甘木インターの出口が見えてくるけん」
「んなもん、後ろの席からじゃ見えねーよ」
「そりゃ、そうやろうけど。もう、あんたせからしかねぇ」
 せからしい、という方言の意味が分からなかったのか、怪訝そうな間があった。
 説明しようかと思ったけど、語感とアタシの口調で言いたいことは伝わるだろう。ちなみに”面倒くさい”とか”煩い”といった不快さを博多弁では全てこの一言で示す。よほど気心の知れた相手の場合を除けば、面と向かってぶつけるときには喧嘩になることを覚悟しておく必要のある言葉でもある。
「しょうがねえだろ。何だよ、この人権侵害みたいなシートは」
「ふん、難しか言葉、知っとうやん」
「悪いな、志村。俺がそっちに乗ればよかった」
 助手席の向坂が口を挟んだ。アタシは彼に笑いかけた。
「気にせんちゃよかよ。志村がカーナビ扱えんとが悪いっちゃけん」
「おい、呼び捨てすんな」
「あんたもアタシのこと呼び捨てにするやんね」
「……まあ、そうだけどよ」
「やったらいいやん。ねえ、志村?」
「うっせえ」
 アタシは返事をしなかった。それが火を注いだのか、志村はブツブツと文句を呟いている。
 体格からすれば後ろに行くのは向坂のほうで、志村が助手席だった。そうさせなかったのはカーナビの操作も確かにある。
 けれど、本当はホテルでの志村との言い合いの内容が恥ずかしかったからだ。
 こういうのを相性が良いといっていいのかは甚だ疑問だが、志村と話しているとまるで別人になったように思ったことを口にすることができた。日頃、表には出さないにしても、もともと言葉遣いがきれいとは言えないアタシのことだ。当然の帰結として口をついて出る言葉は激烈な毒舌になった。
 不思議なことではある。アタシは知り合ってかなりの時間を過ごしたクラスメイト相手でさえ、話すときには言葉を選んでしまう。もちろん、腹が立ったりしたときに衝動的に言葉を発してしまうことはあるけれど、それだって稀なことだ。
 なのに、アタシは昨日知り合ったばかりの志村に向かって、別れた彼にすら使ったことのない罵詈雑言を心置きなくぶつけていた。これでも一応オンナであるアタシの前でパンツ一枚で胡坐をかく無神経さに腹が立ったとはいえ、男性のアレのことを粗末なもの呼ばわりしたことなど、生まれてこの方一度だってありはしない。
「……なあ、おまえって、ひょっとしてお嬢さまなの?」
 しばらく相手にしなかったら飽きたのか、志村の文句は収まっていた。代わりに興味津々な眼差しがルームミラー越しにアタシに投げかけられていた。
 質問がどこから繋がっているのか、すぐには分からなかった。
 たぶん、Zのせいだろう。今年、高校を卒業する小娘が乗れるような車ではないし、部屋はムチャクチャなのに車はちゃんと手入れする持ち主のおかげで、このZは新車並みのピカピカさを保っている。
「そがんことなかけど。これは知り合いからの借り物」
「それでCDがあんなのばっかりだったわけか」
 向坂が言った。
 ホテルの車寄せを離れてすぐ、志村は「なぁ、せっかくのドライブなんだからノリノリの音楽でもかけようぜ」と言った。
 珍しく意見の一致を見てZのダッシュボードを漁った。そして、自分のCDを持ってこなかったことを激しく後悔した。ジャズ嫌いを自称するアタシへのあてつけのように、ジャズやクラシックのCDばかりだったからだ。
 予想したとおり、志村は文句を言った。アタシにしてもドライブ・ミュージックにジャズやクラシックはない。
 まあ、それを言うなら向坂がダッシュボードの奥から見つけてくれたエリック・クラプトンの<アンプラグド>だってナシなのだけど、同じエリックでもサティよりはマシだ。クラシックなんか聴いていたら、そのうち居眠りして防音壁にぶち当たる。
 福岡を出て小一時間、朝倉の最寄である甘木インターに近づいた頃には、クラプトンは最後の<ローリン・アンド・タンブリン>を歌っていた。
「あーあ、このアルバム、退屈だったな。なんか他にねえの?」
 志村はわざとらしく欠伸をした。タバコを我慢させているので甘い顔をしていたが、アタシの堪忍袋もそろそろ限界だった。
「悪かったねって。そがん言うなら、どこかで車停めてやるけん、買うてくれば!?」
「……そこまで言ってないだろ」
「言いよるやん」
「言ってねえって」
「あー、はいはい。アタシのバッグにiPodが入っとるけん、それ聴きよかんね」
 インパネの上に放ってあったウェストポーチを後部座席に放った。志村はブツブツと何やら言い訳めいたことを言っていたが、もう相手にしなかった。
「――俺はそんなに嫌いじゃないけどな。エリック・クラプトン」
 向坂はCDケースを手にとって眺めている。その横顔を目の隅で捉えた。
 おしゃれで伸ばしているとは思えない長い前髪。
 あまりきれいに揃ってないので自分で切っているんじゃないかとすら思った。俯き加減になるとそれが目の辺りにまでかかって、表情全体に陰鬱な翳を作り出している。それだけじゃない。昨日知り合ったばかりなのだから当然かもしれないが、アタシに向ける視線一つとってもこの男はいちいちガラス越しに話しているような余所余所しさを感じさせた。
 やっぱり、亮太とは違う。
 明るく社交的な性格とはお世辞にも言えなかったけれど、亮太は向坂のような壁を感じさせたことは一度もなかった。それどころか、周囲に馴染めないでいるアタシに向かって――多少の下心はあっただろうけど――友だちになろうとすら言ってくれた。
 アタシは心の中でそっとため息をついた。
 当たり前のことだ。彼は向坂永一なのであってアタシの昔の彼氏ではない。違っていないほうがおかしいのだ。それは分かっている。なのに、アタシは向坂の表情から意識を離すことができないでいた。
 ひょっとして、アタシのタイプなのだろうか。
 あるかもしれない。自分がバカだからかもしれないが、アタシは知的な感じのする男性に弱い。過去を振り返ればそれは明らかだ。亮太は転校してきて早々に学年トップを奪ったほどの秀才だったし、別れた彼は見た目こそ元ヤンキーのパンクロッカーだったけど、コンピュータ関係に強かったし頭も抜群に切れた。さらに遡れば、初恋の相手は刑事のくせに医者か弁護士じゃないかと思えるほど理知的な顔立ちをしている。
 しかし、彼がアタシの心の中の何かを揺さぶるのは、そんな単純なものではないような気がした。
「何か、知っとる曲とかあった?」
「……いや、このアルバムには入ってなかった」
 短い沈黙が何を意味しているのかは図りかねた。向坂は言葉を続けた。
「もともと、そんなに音楽を聴くほうでもないしね。真奈ちゃんは洋楽も聴くの?」
「も、やなくて逆にそっちばっかりかな」
「そうなんだ」
「やけん、アタシも別にクラプトンが好かんってわけやないとよ。ばってん、ドライブにはちょっとね。あんまりノリノリやと飛ばしすぎるけん、静かな曲も悪うはないとやけど」
「おい、言ってることが矛盾してるぞ」
「あんた、せからしかッ!!」
 カチンときたので口を挟んできた志村を一喝した。まったくこの男、空気が読めないところは別れたばかりの彼にそっくりだ。
 

2008.11.12 「Change the world」第5章
 
「うわっ、真奈、なんば一人で遊びに行こうとしようとッ!?」
 朝っぱらから由真の罵声が響く。
 こうなるのを恐れて早起きしたのに、日頃は遅刻ギリギリまで起きてこないねぼすけが、どういうわけだかダイニングでしかめっ面をして青汁なんぞを飲んでいたのだ。
「べ、別にそがん、どこか遊びに行くってわけでもなかよ」
 裏返りそうになる声を懸命に抑えた。
「やったら、なんでこがん朝っぱらからコソコソしようと?」
「コソコソとかしよらんやん」
「うそ。思いっきりしよるって」
 そりゃあ、こいつにバレたら警察の取り調べ並みの詮索を受けるからに決まっている。どうでもいいけど、飲みやすくなるように蜂蜜と牛乳をたっぷりぶち込んだ緑色の液体は、健康云々を語る以前にカロリーオーバーだと思う。
「ちょっと、知り合いを遠くまで連れて行く約束しとうとよ。で、目的地が遠かけん、早う出らないけんと」
「ふぅん……」
 アタシが着たら正気を疑われかねないパステルピンクのパジャマの上に赤い半纏。その襟元をかき寄せて早朝の冷気に耐えながら、少し潤んだ眼差しがアタシをジッと睨んでいる。その表情は女のアタシですらドキッとするほど可憐で、それなのにやけに艶めかしい。
「どこに?」
 由真の声が一段低くなった。
「えっ?」
「やけん、どこに行くとねって。それと、知り合いって誰?」
「そがんと、別にいいやん」
「良うないよ。言うとくけど、真奈には黙秘権とかないとやけんね」
「……なんで?」
「福岡市の条例でそう決まっとうと。ねぇ、後ろめたかことがないなら、誰とどこに行くか、堂々と言えるっちゃない?」
 由真は更に迫ってきた。なんだ、その夫の浮気を疑う妻みたいな詰問は。しかも、やけに堂に入ってるし。
 少しでも間を作ろうと、わざとらしい咳払いをした。
「――別に、後ろめたかこととかなかよ。ちょっと、友だち――っていうか、知り合ったばかりの子がおるとやけどね。その子、東京から来とるっちゃけど、お墓参りで朝倉のほうに行くんて。で、あっちに列車とかで行ったらいろいろ大変やけん、アタシが連れて行ってやることにしたとよ」
 あの二人が東京から来たかどうかは訊いてないが、話がややこしくなるのでそういうことにしておいた。性別も微妙に濁させてもらう。
「これで納得した?」
 由真はゆっくりと首を横に振った。
「ぜんぜん……。もう、よかけん白状せんね。オトコやろ?」
「あ、あんた、何を根拠に――」
 自分でも驚くほど大きく息を呑んだ。
「いっつもジーパンとブルゾンで出かける真奈が、そがん格好しとったら誰だって分かるよ」
「あ、いや……」
 確かに、アタシは日頃は滅多にしないような格好だった。
 サックス・ブルーのボタンダウン・シャツに短めのレジメンタルのネクタイ、その上にヒラヒラとフリンジのついたスエードのベスト。ボトムはデニム地のミニスカート。パンストは好きじゃないので黒のハイソックス。あと、この上に白のダウンジャケットを用意しているけれど、さっき外の様子を伺った限りでは今日はそこまで寒くなさそうだった。足元はタン色の革のウエスタン・ブーツを履くつもりだ。ヒールがほとんどないペッタンコなので、アタシが履いても身長一八〇センチ越えの大女にならずに済む。
「アタシも、たまにはこがん格好くらいするよ」
「へぇ、そう。やったら、なんでメイクとかしとうと? いつも、あたしがどがんやかましく言うたっちゃスッピンで出かけるくせに。女の子が相手ならメイクとかする必要ないっちゃないと?」
「ぐっ……」
 反論の材料は欠片ほども見つからなかった。念入りにやると宝塚の男役みたいになるので薄めにだけど、アタシは日頃はほとんどしないメイクもしていた。
「もう、相変わらず真奈は嘘が下手やねぇ」
 容疑者を問い詰める刑事のような疑り深い目がアタシをじっと見上げてくる。居心地悪いことこの上ない。さっさと出かけたかったけど、村上がまだ来ていないので追求を振り切って飛び出すこともできない。
 ――しょうがない、観念するか。
 アタシは昨日の博多駅での出会いから警固公園での立ち回りとその後の食事のことを話した。二人の男の名前が向坂永一と志村正晴であることや、朝倉に住んでいた向坂の大伯父が亡くなって、相続関係の書類を片付けるために九州に来たついでに墓参りに行くこと。アタシがその案内役を買って出た経緯も包み隠さず話した。話さなかったのはただ一つ、向坂がアタシの昔の彼氏に、志村が別れたばかりの彼に、いずれもどことなく似た雰囲気を持っていることだ。
「お人よしでもお節介でも、好きなように呼んでくれてよかよ」
 椅子にどっかり腰を下ろして、話しながら淹れたコーヒーに口をつけた。横目でダイニングに置いてある古い柱時計に視線を飛ばす。
 もうすぐ七時。約束の時間だった。パールホワイトのフェアレディZを貸してくれる博多署の刑事は身の回りのことはまったくできないダメ人間だけれど、時間にだけはとにかく正確なのだ。
「ふうん……まあ、それはいいっちゃけど」
 由真が言った。口調からはぜんぜん良さそうなニュアンスは感じられない。
「なんね?」
「どっちが本命?」
「……あんた、アタシの話、ちゃんと聞いとった?」
「東京の男の子二人、天秤にかけとうっちゃろ」
「そがんこと、誰も言うとらんやろうが」
 マナーモードにしたままの携帯電話が震えた。メールが届いていることを示す赤いランプが灯っている。やっと来たか。
「とにかく、そういうことで出かけてくるけん」
 由真は恨めしそうな視線を投げつけてくる。
「よかねぇ、真奈は。自分一人だけ楽しくデートとか行ってさ」
「やけん、デートやないって言いよろうが。だいたい、どこの世界に墓参りデートとかする物好きがおるとね」
「あたしの目の前」
「だからぁ――」
「ふーんだ。あたしが一生懸命、補講受けようときに、真奈は男の子を二人も侍らせてドライブしよるわけかぁ。あ~あ、女の友情ってそん程度のもんよねぇ」
 成績ではアタシなど足元にも及ばない才媛である彼女が、卒業式間近になっても補講を受けなくてはならないのにはいろいろと事情がある。アタシとしても大変だろうなと思うし、可哀想だなとも思う。けれど、それとこれとは別の話だ。
 何か言ってやろうと思って由真を見た。彼女は口を小さく尖らせて、上目遣いにアタシの顔を見つめ返していた。
(……あー、はいはい)
 胸の中で両手を挙げた。拗ねた表情すら可愛いのだから本当に始末に終えない。
「分かった、分かった。帰ってきたらその二人も誘って合流するけん、それでよかろ?」
「うんっ!!」
 子どものような返事。さっきの暗さがウソのような満面の笑顔。弄ばれていると分かっていても逆らえないアタシがそこにいた。
 まったく、悪女というのはこいつのためにある言葉だ。
 

2008.11.11 「Change the world」第4章
 
 合計六人を完膚なきまでに叩きのめしてから二人をバイト先まで連れて行った。まだ夕食は食べていないと言うし、その割にはどこで食べるかも決めていない様子だったからだ。この後も街を出歩いてさっきのアホどもと鉢合わせというのもあまり感心しない。
 バイト代を受け取るために事務所に顔を出すと、工藤さんが紛い物のキューピー人形のような顔にいやらしい笑みを浮かべていた。これでも九州の空手界では名の通った猛者なのだがとてもそうは見えない。
「なんね、真奈ちゃん。いきなりカレシば二人も連れてきてからっさ」
「誰がカレシですか。だいたい、一度に二人も相手できませんって」
「真奈ちゃん、3Pとかするとね。うわぁ、ヤラしかぁ」
「……アホか」
「なんね、違うと?」
「当ったり前でしょうがッ!!」
 とても雇用主と従業員の会話には聞こえないが、それはいつものことだ。
 この<海鮮居酒屋・博龍>はその如何にもな屋号とは裏腹に、小洒落た店が多い西通り界隈でも指折りの高級店だ。白木を多用した和風の造りと間接照明を多用したムーディな演出。出されるのは玄界灘の海の幸。板長は名前を言えば誰でも知ってる某高級料亭で料理長を勤めた凄腕だ。
 従って、その客層はサラリーマンの中でもそこそこの地位にいる人たちが中心になるし、価格もそれなりのものになる。二人は店に入るなり、あまりに場違いなところに連れて来られたことに怖れをなしていた。
 ――大丈夫って。ちゃんと予算内に収めてあげるけん。
 安心させようとそう言ったけれど、二人の引き攣ったような表情は収まらなかった。まあ、無理もないことではある。
 ウーロン茶を三人分、店内の奥まった一画にあるテーブルまで運んだ。
 彼らは向かい合わせに座っていて、アタシが腰を下ろそうとすればどちらかと隣り合わせにならざるを得なかった。テーブルにグラスを置きながら、どちらかと言えばほっそりしたダッフルコートの彼の隣のほうが、両脚を開いてどっかり座っている革ジャンのほうより座りやすそうだと思った。
 なので、ダッフルコートの彼の隣に腰を下ろした。革ジャンがアタシを睨んできたけど意味が分からないので無視。
 ダッフルコートの彼は自分たちがトラブルに巻き込まれた経緯を話してくれた。ボウズ頭どもと揉めたのは革ジャンのほうだった。
「――へえ、大変やったね」
 気持ちは分からないではないけど、ちょっと背中にぶつかられたくらいでぶん殴るというのも堪え性のない話だ。アタシもたぶん、同じ反応をするだろうけど。
「君のおかげで本当に助かったよ。えーっと、まだ自己紹介もしてなかったね。俺は向坂永一。こいつは――」
「志村正晴」
「アタシは真奈。榊原真奈」
「強いんだな、君は」
 コウサカエイイチと名乗った彼は、心底感心したように息をついた。そう言われても照れ笑いを浮かべるしかなかった。
「別に大したことなかよ。あいつらが弱っちかっただけやん。ちょっと手加減したくらいやもん」
「どこがだよ」
 志村が口を挟んできた。向坂とは違う意味でこの男の声も押し殺したように低い。それが地声なのか、迫力が出るようにそうしているうちに習い性になったものかは微妙なところだ。
 それからしばらく、彼らが福岡に来た経緯などを聞きながら、オーナーのオゴリ(一人一〇〇〇円で食べ放題)で海鮮料理を堪能した。ブツクサ言ってた割には志村は一番食べて飲んだ。あんまりガツガツ食べるので、自分の分を食べるよりも二人の小皿に料理をよそってやるほうが忙しかったくらいだ。
「ふうー、食った食った」
「文句タラタラやったわりには、あんたが一番食べとうよね」
 支払いを終えて店を出ると、志村はポンポンと腹を叩いた。満腹になれば機嫌が直るあたりはまだまだ子どもだ。アタシが常日頃、由真に言われていることなので間違いない。
「これからどうすっと?」
 向坂がアタシのほうを向き直る。
「君は?」
「アタシはもう帰るだけ。だいたい、今日もバイト代の受け取りに来ただけったいね。今どき、振込みもしてくれんっちゃけん、呆れるよね」
「でも、手渡しのほうが『ああ、今月も頑張った』って気にならないか?」
「それはまあ、そうなんやけど」
 目の隅のほうでまたしても志村が拗ねてるのが見えた。無視しているわけじゃないのに、アタシにどうしろと言うのだ。
「俺たちもさっさとホテルに帰るよ。さっきの連中と鉢合わせはカンベンしてもらいたいし。それに明日は朝が早いんだ」
「どっか行くと?」
「墓参りに朝倉市ってとこまで」
「朝倉ぁ!?」
「ああ。実はウチの祖母さんの兄貴がこっちに独りで住んでたんだけど、病気で亡くなってね。それで」
「へぇ……。わざわざ、あんな遠かとこまで?」
「俺はこっちの人間じゃないから、どれくらい遠いのかは分からないけどね。でも、親類縁者が誰一人、墓参りに行かないのも薄情じゃないかと思うんだ」
「それはそうやろうけど。――それやったら、アタシが車で連れていっちゃろうか?」
「君が?」
 向坂はキョトンした顔をしていた。
 同じことはアタシも思った。けれど、一度口にした言葉は取り消せないので構わず続けた。そんなことを申し出た理由は自分でもよく分からなかった。
「アタシ、明日は別に予定とかないし。電車で行ったらむちゃくちゃ時間かかるよ?」
 朝倉市は福岡県の中西部。車で高速道路を使っても結構かかる。それを鉄道で行くなんて、アタシに言わせれば時間の浪費でしかない。何せ、一時間に一本しか列車が走っていないのだ。
「おまえ、学校どうすんだよ。明日は平日だぜ」
 志村が言った。
 ――分かっとうって、そがんことは。
 すんでのところでその一言を飲み込んだ。単に友だちが少ないだけかもしれないが、志村はアタシの周りにはいないタイプの男だった。言うことすること、いちいち癪に障るのは事実だ。しかし、それも含めてピシャリと撥ねつける気にはならない。
「アタシ、今年卒業やもんね。そうやないなら車でとか言い出すわけなかろ。人の話、ちゃんと聞きよる?」
「……んだと?」
「志村」
「だってよ――」
「いいから」
 向坂が静かに制すると、志村は不満そうな顔をしながらもそこで止まってしまった。向坂は不似合いな笑みを浮かべて、アタシのほうを向き直った。
「えーっと、榊原さん」
「真奈でよかよ。苗字で呼ばれると、慣れとらんし」
「じゃあ、真奈ちゃん。お言葉に甘えさせてもらってもいいかな? ――いいだろ、志村?」
「……ああ、永の好きなようにしろよ」
 渋々というよりは驚いたような表情で、志村は同意した。
 明日の朝、彼らが泊まっているホテルに迎えに行くと約束して踵を返した。
 帰りのバスの中で、借りるつもりだった祖母のアウディが昨日から車検に出されていることを思い出した。代車は借りてなかったはずだ。祖父のメルセデスがあるにはあるけど、それはいくらなんでも大袈裟すぎる。
 仕方ないので、村上恭吾の携帯電話の番号を呼び出した。
 村上はアタシにとってはかつて警察官だった父親の元同僚にあたる。あまり認めたくないがある事件で大きな借りを作った恩人でもある。そのお返しにアタシはこの男のマンションで通いの家政婦の真似事をしている。
「……どうした、こんな時間に?」
 脳裏に眼鏡のブリッジを中指で押し上げる怜悧で端整な顔が浮かんだ。声だけ聞いていたらとても刑事とは思えない。どっちかというと医者とか研究者が似合いそうだ。いつか白衣を着せてみようと思っているのだけどなかなかチャンスがない。
 いや、それはともかく。
「ごめん、明日、車貸してくれん?」
 理由を訊かれるかと思っていたのに村上は何も言わなかった。
「別に構わんが。こっちに取りにくるか?」
「朝早くやけど、よか?」
「だったら、俺がそっちに乗っていこう。代わりにおまえのバイクを貸してくれ」
「よかよ。ばってん、わざわざバイクで行かんでも、一日くらいバスで行けばいいやん」
「明日は非番なんだ。久しぶりにバイクで遠乗りも悪くないと思ってな」
「ふうん……」
 どうでもいいけど、生粋の福岡県人であるはずのこの男は、どうしてまったく福岡弁を話さないのだろう。何度かぶつけた疑問なのだけれど、納得いく答えが返ってきたことは一度もない。
「じゃあ、明日の七時におまえの家に行くよ」
「りょーかい。着いたらメールして」
 それだけ言うと、さっさと電話を切った。
 家に帰り着いてシャワーも早々にベッドに潜り込んだ。しかし、なかなか眠ることはできなかった。
 仕方がないので、志村と交換した携帯電話の番号をじっと見つめて睡魔が訪れるのを待った。道を訊かれただけの男の子が元彼に似ていたからといって、わざわざ車を出してまで遠くへ出かける約束をした自分に少し――いや、大いに困惑しながら。
 

2008.11.10 「Change the world」第3章
 
 そんなにアチコチの地下街に行ったことがあるわけではないけど、”天地下”こと天神地下街は他所とはかなり違った造り――というか、趣きがある。
 設計のコンセプトは”劇場”なのだそうで、南北に梯子状に走る二本の通路はいずれも薄暗く、逆に両端と真ん中に並ぶテナントの店内は煌々と照らし出されている。天井には蔦が絡まったようなレリーフが施されていて、煉瓦造りを模した壁とも相まってちょっと非日常的な雰囲気を感じさせてくれる。
 北半分の以前からある区画も南側に伸びた新しい区画も、アタシには無縁なファッション・テナントで埋め尽くされている。
 おかげで買い物に来ることはそんなにない。ただ、どうせ由真に付き合わされるのなら他のファッション・ビルより地下街のほうがいい。あと、この地下街は渡辺通り周辺の大抵のビルと地下で繋がっていて、雨の日には濡れずに移動できるので非常に便利だったりする。
 由真の春物のボレロを受け取ってから、用事を思い出して天神西通りのバイト先に電話をかけた。
「――はい、海鮮居酒屋、博龍です」
 畳み掛けるような早口の声は板長だ。
「真奈ですけど、オーナーは?」
「工藤ならまだ来とらんよ。遅れるとか言いよったばってんね」
「そうですかぁ……」
「工藤とは道場で会わんと?」
「アタシ、最近行ってないんですよ。一応、受験生なんで」
 アタシは子供の頃から空手をやっているが、一昨年くらいから店のオーナーである工藤さんが師範代を務める道場に出入りしている。正確に言えば順序は逆で、愛機スズキ・バンディット250Vの維持費を捻出するために、道場で知り合った工藤さんに頼み込んでここでアルバイトさせてもらっているのだ。
「どがんしたと?」
「いえ、そろそろ給料貰いに行こうかなーって」
「ああ、そがんことな。バイト代なら俺が預かっとるよ。早よ来んと使うてしまうばい」
「後で顔出します」
 電話を切って、由真のもう一つの用事を片付けるためにソラリアステージに向かった。ここから一番近い入口は”きらめき地下通路”という命名者のセンスを疑いたくなる連絡路(同じところの地上はそのものずばり”きらめき通り”という)の途中にある。
 フロアガイドによればINCUBEはソラリアステージのM3階から五階を占めている。M3というのは二階と三階の間の中二階のことだ。ソラリアは二階部分を西鉄大牟田線の高架線路と駅に、三階部分を西鉄の天神バスセンターにぶち抜かれている関係で段違いのフロアがあって、階数表示がいまいち分かりにくい。
 由真が見てきてくれと言ったのは三階にあるパーティグッズの店だった。
 何でも今度の卒業式の後で開かれる謝恩会の出し物でマジック・ショーをやるつもりらしい。頼まれていた手品用のカードはすぐに見つかった。不器用な由真にカードマジックができるかどうかは甚だ疑問だけれど、アタシが口を出すことでもないので適当な値段のものを選んでレジに並ぼうとした。
 そのとき、遠くのほうで怒鳴り声がした。
 
 ――きさん、待たんやッ!!
 
 吹き抜けの下の階からだ。レジの店員の女の子がアタシそっちのけで声がしたほうを向く。
 つられて振り返るのと同時に、誰かが妙に裏返った甲高い声で怒鳴った。
「おい、エイッ、大丈夫かッ!?」
 広々としているとは言えないショップとショップの間のフロアに、ひょろりとした革ジャンの男がものすごい勢いで駆け込んでくる。呼びかけは背後に着いてきているダッフル・コートの男に向かってのものだ。
 博多口の前で出会ったあの二人だった。
「大丈夫だ。それよりシムラ、ここ何処だ?」
「しらねえよ。とにかく、あっちだ!!」
 呆然と見つめるアタシに気づく様子もなく、彼らはまるで追い立てられるようにその場から走り去っていく。
「……何しようとかいな?」
 思わず一人ごちた。
 二人が何者かから逃げているのは間違いない。そして、それはさっきの怒声と関連があると考えるのが順当だろう。
 それはすぐに証明された。パーティ・グッズに縁のない連中が下の階から駆け上がってきて、辺り構わずに躾のなってない犬のような視線を飛ばしたからだ。一人が場違いな罵声をあげ、一人があの二人が逃げたほうを指差している。
 追いかけっこの勝敗を分ける要因は幾つかあるが、土地勘はその中で大きなウェイトを占める。このままではアウェーの二人はいずれ追いつかれてしまうだろう。
 アタシには何の関係もないことではある。けれど、それは避けなければならないような気がした。
 バッグをその場に落として素知らぬ顔で不良どもに近寄る。穏便にこいつらを追い払うアイデアが浮かばないではなかったが、アタシは本質的に回りくどいことが嫌いだ。
「ねえ、ちょっと?」
 先頭にいたサル顔の出っ歯に声をかけた。
「あん?」
「あれ、何?」
 サル顔はアタシの視線を追って右を向いた。
 次の瞬間、体重を乗せて繰り出したアタシの掌底がサル顔の左耳の裏側、ボクシングで言うところの”アンダー・ジ・イヤー”を捉えた。頭蓋骨ごと三半規管を揺らした手応えが手のひらに伝わってくる。
「……あっ」
 サル顔はヨロヨロと三歩後ろに下がってから、糸の切れた操り人形のようにへたり込んだ。
「なんしよーとや、きさん!!」
 後ろにいた茶髪を真ん中で分けた男が気色ばんだ。
 何か格闘技をやっているのか、中途半端な半身の姿勢で構えをとっている。それは別にどうでもいいけど、アタシの位置からは蹴ってくれといわんばかりに前足の膝裏が丸見えだった。
 なので、そこめがけて下段回し蹴りをお見舞いした。
「いってえッ!!」
 ローファーの爪先が軟らかい膝裏を捉えて、茶髪の身体がガクンと沈む。いわゆるヒザカックンと同じ理屈だが痛さでは比較にならない。アタシはこの打ち下ろし気味の下段回し蹴りでバットをへし折ることができるからだ。
 バランスを崩して浮き上がった茶髪の喉元に裏拳を叩き込んだら、それであっさり片がついた。茶髪は猛烈な咳を繰り返しながら悶絶している。
「ひさん、なんやってッ!?」
 最後の一人、アーミーグリーンのフライトジャケットを着たボウズ頭が喚く。どうでもいいけどコイツ、まだ何もしてないのにすでに鼻にティッシュペーパーを詰め込んでいる。何なんだろ、いったい。
「はっきのひゃつのほんはは?」
 レジに視線を飛ばした。
 ……まずいな。
 何を言ってるか分からないこのアホウのことではない。
 攻撃開始からここまでほんの一〇数秒。店員の彼女にとってはあっという間のできごとだったはずだ。しかも手を出しているのは女子高生のアタシでやられているのは通常は加害者であるはずの不良どもだ。事情はまず飲み込めていないだろう。
 しかし、そろそろ思考停止から回復する。理由はどうあれ、この場のやりとりは間違いなくアタシの不意打ちだ。アタシと彼らの身なりを見比べて警備員が事情をどんなふうに判断するかは微妙なところだが、それに賭けるほどアタシは無謀ではない。
 なので、彼らには無実の罪を背負ってもらうことにした。 
「意味の分からん質問せんよ。何ね、いきなり身体とか触ってきてからさ!!」
「はぁ!?」
「さっさとそいつら連れて行かんやったら、チカンで警察に突き出すよッ!!」
 わざとらしく怒鳴った。ボウズ頭は目を白黒させている。
「ひょ、ひょっとはてって。はれがおまえとかはわるかって!!」
「すいませーん、警備員さん呼んでもらってもよかですかぁ?」
 無視してレジの店員に呼びかけた。再び思考停止状態にあった彼女は、ハッと我に返ると飛びつくような勢いでレジ横の受話器に手を伸ばした。
 ボウズ頭は血走った目でアタシを睨んでいたが、レジの女の子が受話器を置いて向き直ったのを見ると盛大な舌打ちを残して逃げ出した。置いていかれては拙いと思ったのか、悶絶していたあとの二人もヨロヨロとした足取りでそれに続く。
 さて、と。
 呆気にとられる彼女にテキトーな言葉をかけて、そそくさとバッグを拾い上げてその場を離れた。彼らがアタシの身体に触ったというのは一〇〇パーセント嘘なので、詳しい事情を訊かれるとまずいことになる。
 逃げるようにエスカレータを駆け下りてトイレに逃げ込む。警備員がアタシを捜すとは思えなかったけど、少し時間を潰したほうがいいだろう。その間に由真に向けて手品グッズを買い損なった言い訳を綴ったメールを送る。
(……しかし、いったい何やったとかいな?)
 やってから考えるのも変な話だけれど、他人の揉め事に首を突っ込むのはアタシにしては珍しいことだ。ほとんどの場合、どちらかがよほど卑怯なことをしてない限りは「本人たちの問題」でスルーしてしまうからだ。
 けれど、あの二人は地元の人間ではないし、自ら進んで揉め事を起こすようなタイプにも見えなかった。心情的に言っても――仮に悪いのがあの二人のほうだったとしても――この前、由真が作ったできそこないのカレー並みにサラサラな頭脳の持ち主よりは彼らに味方してやりたかった。どうでもいいけどアタシが「これ、新しいスープカレー?」と訊いたら、由真は三日ばかり口を利いてくれなかった。
 それはともかく、とりあえず二人から追っ手を遠ざけることはできた。時間も稼げたはずだ。あとは無事に逃げ切ってくれることを祈るしかない。しばらくソラリアの中をウロウロして誰にも追われていないことを確かめてから、駅ビルの裏手に出た。
 駅ビルの裏側はそのまま警固公園に面していて、そこを突っ切れば岩田屋の正面入口のコンコースに出る。西通りはその向こう側だ。
 アタシが足早にバイト先に向かおうとした、その刹那――
「ふあッ、ひさんッ!!」
 鼻づまりの罵声が薄暗い公園に響き渡った。驚いて声のした方向を向く。
(……どがんことね、これ)
 あまりの光景に目を疑った。どこをどう逃げ回ったのか見当がつかないが、あの二人とアホウどもがソラリアプラザの公園側のエントランス前で対峙していたからだ。
 さっきのボウズ頭がスタッド付き革ジャンの彼を指差している。その仲間と思しき身なりの連中が半円状に囲んで、二人を公園側には逃がさないように陣取っている。〆て六人。さっき、アタシがぶちのめした二人もしっかり戦列復帰している。
 警察を呼ぶべき局面なのは間違いない。けれど、そんな悠長なことを言っていられる状況でないのも間違いなかった。
 バッグを放り出して駆け出した。通行人を掻き分けるアタシの目にボウズ頭の背中が入ってくる。お誂え向きにアーミーグリーンの背中には数発の銃弾に穿たれたターゲットがプリントしてあった。
 そのど真ん中に狙いを定めて身を躍らせる。放つはスクリュー式ドロップキック。中学のとき、体育の授業中にマットの上で男子相手にさんざん練習した技だ。
 久しぶりに使ったけど、そもそも勢いさえあればそんなに難しい技ではない。アタシの両脚はターゲットを完璧に捕えて、奴はエントランスのタイルの上を車に撥ね飛ばされたような勢いで滑っていった。
「な、なんやって!?」
 アホウどもの誰かが喚く中、前受け身の態勢で着地してすばやく立ち上がった。スカートの中にスパッツを履いていないことを思い出したが後の祭りだ。
 残り五人。一度に掛かってこられないようにポジションをとる。
「君はさっきの――!?」
 誰もが呆然とする中、声をかけてきたのはダッフルコートの彼だった。驚いたように目を丸くしたその表情はさらに中学生のときの元彼を思い出させた。アタシが無茶なことをするたびに、亮太はいつもたしなめるような視線をアタシに向けていた。
「――奇遇やね。手が要るんやったら貸すけど?」
 言葉が出ない二人に向かって得意の不敵な笑みを浮かべてみせた。照れ隠しだったことは言うまでもない。
 

2008.11.09 「Change the world」第2章
 
「――はい?」
 目の前にいたのは、真面目くさった顔をしたアタシと同い年くらいの男子だった。
 灰色の少し毛羽立ったダッフルコートに色褪せたデニム。肩からは古ぼけたボストンバッグを提げている。笑えばハンサムの部類に入るのは間違いないだろうが、あまり表情豊かな感じには見えなかった。整った目鼻立ちが却って近寄りがたい印象を与えるタイプだ。主義主張があって伸ばしているふうではない前髪が目の上まで掛かっていて、顔の半分にかかる暗い翳がその印象をより強いものにしている。
 男子にしてはほっそりとした体躯といい、繊細そうな顔立ちといい、亮太と共通する部分は少なからずある。けれど、どこをどう見ても彼はまったくの別人だった。
(……そうよね、そがんわけなかよね)
 アタシは何を考えているのだ。亮太が福岡に来ることなどあるはずがないのに。
「博多口って、こっちで間違いないですか?」
 目の前のダッフルコートの彼が亮太の声で続けた。
 慌てて駅の構内を指差した。内心の動揺を押し隠そうとして、自分でも気持ち悪くなるほどの笑顔が浮かんでいるのが分かる。
「ここは筑紫口。博多口はあっち」
「違うんですか?」
「ここの表示って不親切なんよね。博多口の手前に筑紫口の表示が出とうし。あっちって矢印は出とうけど、そがんと地元の人にしか分からんもんね」
「はあ……。そうなんですか」
 博多駅には二つの出口がある。駅の西側、博多の街並みやその向こうに天神を見る博多口と、東側の官公庁や空港を見る筑紫口だ。博多駅の構内が方向を見失いやすい造りなのもあって、遠方から来た人は割と間違えると聞いたことがある。
「参ったな……」
 彼はポツリと呟いた。間違ったことへの落胆の台詞なのに、淡々とした口調のせいでどうでもいいことのように聞こえる。
(――でも、やっぱり似とう……)
 目を閉じて会話したら、より強くそう思えたに違いなかった。線の細さに似合わないよく通る深みのある声質。ほんの少し、喉に引っかかるように掠れているところまでそっくりだ。
 付き合い始めた頃の亮太は変声期の終わりで少し聞きづらいこともあったが、それが終わるとバラードを歌わせたらちょっとウットリするような落ち着いた低音になっていた。あまりに気に入ってしまって、嫌がる亮太に無理やり<愛しのレイラ>のアンプラグド・ヴァージョンを歌わせたこともある。
 アタシは昨夜もそのテープを聴き返していた。そうでなければ、遠い耳の記憶だけで二人の声を重ね合わせたりしなかったかもしれない。
「――だから言っただろ。間違いないのかって」
 彼の背後から別の声がした。
 口を挟んできたのは連れにしては異質な感じの男だった。スタッドがびっしり打たれた黒革のジャンパーにヴィンテージ・ジーンズという、よく言えばワイルド、悪く言えばいかにもワルそうな身なり。襟元や手首にシルバーのアクセサリを鈴なりにして、手にはタバコの吸殻を押し込んだ空き缶を持っている。身長一七三センチのアタシよりも一〇センチ近く背が高い。
 ダッフルコートの彼の間違いに付き合わされたからかもしれないが、男は面白くなさそうな表情を隠そうともしなかった。クセのある拗ねたような目つきがせっかくの優しそうな顔立ちを台無しにしている。
 アタシはそんな彼の顔をマジマジと見ていた。
 
 いったい、何だというのだろう。
 ミッション系の学校に通っていながら、アタシは神様や運命をまるで信じていない。
 けれど、もしそんなものがいるのだとしたらずいぶんと意地悪なものだ。昔の彼氏を思い出させる男に続いて、今度はついこの前までの彼に似た男とは。

 革ジャンの彼の訝しそうな視線でアタシは我に返った。意図して表情をほころばせた。
「――あんたたち、こっちの人じゃなかろ? 旅行?」
 二人は面食らったような顔になった。アタシがそう思ったのは彼らのイントネーションもあるが、革ジャンの彼も大振りなボストンバッグを足元に落としていたからだ。
「そんなところかな。――ありがとう、助かったよ」
「ううん、別に」
 一瞬の間。
 何でもいいから、彼らと話を続けたい衝動に駆られた。しかし、話を続けるきっかけは何も見つからなかった。そんなもの、最初からあるはずがない。
(バカやないと? アンタ、何ば期待しとうとね?)
 心の中で自分に叱咤を浴びせた。失恋の痛手はとうの昔に振り払ったはずだった。
「――じゃあね」
 小さく手を振って二人から離れた。振り返りたくなるのを抑えつけて地下鉄の駅に降りて、上の空のままで天神駅までの切符を買った。
 ホームに降り立ったのと天神行きの列車が滑り込んできたのはほぼ同時だった。ラッシュには早いので席の余裕はありそうだったけど、地下鉄のドアは閉まるのが意外と速い。小走りで列車に駆け込んだ。アタシが乗り込んですぐ、ホームドアがプシューと音を立てて閉じた。
 席に腰を下ろしてトートバッグからiPodを取り出す。ボディに巻きつけたイヤホンを解いて耳につっこんで、プレイリストの一つを適当に選んで再生した。
 流れ出したのは山下洋輔の<スパイダー>だった。
 周囲からは洋楽のハードロックしか聴かないオンナだと思われているし、アタシ自身もそう公言しているけど、本当はこういうジャズも聴く。その昔、ある男に向かって「ジャズは嫌いだ」と言ってしまった手前、こっ恥ずかしいから秘密にしているだけだ。
 別に山下洋輔が聴きたかったわけじゃない。実際のところ、今は何を聴いてもあまり耳に入らない状態だった。ただ、それならヴォーカルのある曲よりインストゥルメンタルのほうが多少はマシかもしれない。
 さっきの二人を思い出しながら、携帯電話のメールボックスを開いた。由真以外にはアタシにメールを送ってくる相手はあまりいないけど、この一ヵ月、二日に一度くらいのペースでメールが届く。
 そんな中の一つを呼び出した。別れたばかりの元彼からのメールだ。アタシが長文のメールを嫌っていることを知ってるからか、文面はまるで用件を並べたメモのように短い。

<真奈さん、お元気ですか。オレは元気です。昨日、やっと部屋にベッドが届きました。これで板張りに布団をしいて寝なくていいので助かります。まだまだ一人暮らしに必要なものが揃わなくて困ります。えーっと、また、連絡します>

 アタシはあんたのママじゃない。つまらないメールを送ってくるな――といつも思う。
 実際にそう返事したこともある。けれど、まるで我慢比べのように近況報告のような文面は届いていた。アタシにしたところでいちいち苛立ちながらもメールを削除できないでいたし、着信拒否することもできないでいる。
 別れ間際に聞かされた話では、新しい職場は東京のど真ん中――渋谷にあると言っていた。福岡の田舎者の元ヤンキーが大都会に馴染めるのか、一抹の不安がないではない。
(バカやないと。なんでアタシがそがんこと、心配してやらないかんとね) 
 一ヶ月前のヴァレンタイン・デー。アタシは手作りのチョコレートの代わりに彼に渾身の平手打ちを贈った。
 アタシより自分の夢を選んだあの男を、アタシはもっと恨んでいいはずだ。なのに、怒りどころか恨み言の一つも浮かんでこない。あまつさえ、アタシは自分のほうから別れ話を切り出して彼を送り出していた。
 形としてフラれるのを拒んだと言えなくはない。けれど、結局は同じことだ。アタシはそんな無意味な意地は張らない。何故、自分がそうすることを選んだのかは未だによく分からないままだ。
 静かに息を吐き出しながら携帯電話を折り畳んだ。山下洋輔はいつの間にか演奏を終えていて、代わりにクリス・コーネルが声を張り上げていた。
 アタシはバンド時代のほうが好きだが、この曲は007のテーマなので日本以外ではかなりヒットしたらしい。およそ去年の曲とは思えない八〇年代テイストのハードロックに耳を傾けながら、アタシはついさっき出会った二人の男の子のことを思い浮かべていた。
 彼らは何の目的で福岡までやってきたのだろう。
 背が高い革ジャンの彼だけなら遊びに来たのかとも思う。男二人でどうかとは思うが、時期的には卒業旅行もあり得るだろう。アタシも卒業式の後に由真とその友人たちと一緒に大分の鉄輪温泉に行く計画を立てている。
 しかし、気心の知れた同士に見えた割には、彼らからはそんな楽しそうな雰囲気もあまり感じられなかった。
 ――名前くらい訊いとけばよかったな。
 そう考えて、ずいぶん馬鹿げた考えに自分で笑いそうになった。福岡にだって一二〇万人からの人間がいる。いくら名前を知っていても、異邦人である彼らとどこかで再会する可能性など運命の悪戯以下の確率でしかない。
 曲はクライマックスに差し掛かっていた。リフレインでクリス・コーネルが独特のしゃがれた声で”You know my name!!”とシャウトを繰り返している。
 そんなことはない。彼らだってアタシの名前など知っているはずがないからだ。
 

2008.11.08 「Change the world」第1章
 
「うわ~、真奈、久しぶりやんー!! 元気しとったぁ!?」
 夕刻の博多駅前。一度、素知らぬ顔で通り過ぎたのをわざわざ戻って声をかけてきたのは中学生のときの同級生だった。
「……ああ。うん、久しぶりやね」
「またぁ、相変わらずあんた、クールやねぇ」
「そっかな。別にそがんことなかけど」
 バスケ部の元チームメイト(アタシは助っ人だったが)ではあるが、特別に仲が良かったわけでもないので、そんなにハイテンションで来られても応対に困る。
「あれっ? あんた、学校の帰り?」
 そんなことは気にせず彼女は続けた。返事の代わりに曖昧なため息をついてみせた。
「まあ、そんなとこ」
「でも、制服違うやん。真奈が行ったとこ、だっさいセーラー服やなかった?」
「あんた――?」
 寸でのところでその続きを飲み込んだ。
「……転校したとよ。ちょっといろいろあって」
「へえ、そうね。ほら、あたし中学卒業してからすぐ、また海外やったけんさ」
 そういえば、彼女は父親が外資系の会社に勤めている関係で、断続的に海外生活を送ったと言っていた。その割に英語の成績は散々だったような記憶があるが、それはまあ、どうでもいい。――道理でアタシに気軽に声をかけてきたわけだ。
「でもさ、その制服やったら、学校は六本松やろ。こがんとこで何しようと?」
「予備校に行っとったとよ」
 トートバッグから<福岡大学 後期日程再現問題>と書かれた封筒を取り出した。
 三月も半ば。入試が終わってしまえば予備校に顔を出すことなどないと思っていたのだけれど、世の中はそんなに甘くない。
 この一年、アタシなりにちゃんと勉強に励んできた。
 けれど、合格しているという確証は持てていないのが現実だ。現に前期日程で受けた人文学部英語学科は見事に落ちてしまっている。仕方がないので後期で日本語日本文学科を受けて、他にも幾つかの大学の二次試験を受けた。
 出来上がったばかりの後期の再現問題なんか貰いに来たのは、その出来にすら自信が持てていないからだった。終わってから何をしても同じなのは分かっている。けれど、合否の発表まで身悶えしかやることがないというのは、あまりにも精神衛生上良ろしくない。
 しばらく、近況報告のような会話が続いた。数分ほど話して分かったことは、彼女もアタシが通っている予備校の生徒だったことと、そこで同じ大学を受験する男子と出会って一緒に勉強するうちに急接近したことくらいだ。
 予備校は保健体育を学ぶところじゃないぞ、と言ってやろうかと思ったけど、妬んでると思われては心外なので言わずにおいた。
「あー、でもホント久しぶりやん。去年、こっち戻ってきたとやけど、中学のときの友だちとかもうバラバラやけんね。わざわざ探してまでっては思わんし、三年じゃ同窓会もなかしさー」
「そりゃそうやろうね」
「でもさ、この前、担任やった先生には会うたよ。あの人さ――」
 相手が聞いているかどうかも確かめもせずにまくし立てる彼女を見ながら、アタシは心の中で苦笑いを浮かべていた。
 およそ昔の知り合いで、アタシにこんなに気軽に話しかけてくる人間はいない。一時期のように穢れたものを見るような視線を浴びることはさすがになくなったが、目の前のノッポがアタシだと気づいたときに誰もが気まずそうに目を逸らす。
 それが加害者の家族に向けられる”関わりあいになりたくない”という気持ちか、それとも自分が理屈の上では何の罪もないはずのアタシに加えた仕打ちへの良心の呵責か。
 いずれであってもアタシに知る術はない。 
「――そういえばさ、真奈は彼氏とかおらんと?」
「へっ?」
 幸せな人間は時にものすごく答えにくい質問を悪意もなく投げつけてくることがある。隠し立てするようなことではないが、そんな彼女に向かって、自分が一ヶ月前に彼氏と別れたばかりとは言えなかった。
「……もう、だいぶ長いことフリーやけど」 
「えー、そうなん? 寂しうない?」
「別に。彼氏とかおらんでも困らんしさ」
「そがんこと言うて、あんた、中学のときは学年一の秀才くんと付き合いよったやん」
「……あんた、なんでそれ知っとうと?」
 誰も信じてくれないけど、アタシにだって乙女心というものがある。人並みに照れというものもある。アタシとその”学年一の秀才くん”は確かに付き合っていたが、二人とも学校ではひた隠しにしていた。
 彼女は弾けるように笑った。
「ちょっとー、知らん人間とかおらんよ。真奈、ひょっとして隠せとうって思っとったと?」
「いや、その……」
 たった今、この瞬間まで思ってた。
「えー、知らんかった。誰もアタシにそがんこと言わんし」
「当たり前やん。真奈を冷やかしたりする命知らずとかおるわけなかろ。――でも、あたし、真奈はずーっとあの秀才くんと付き合いよるって思っとった」
「そがんわけないやん。亮太は卒業と同時に東京に帰ったよ」
「そうやったっけ。……ごめん、変なこと言うて」
「よかよ、気にしとらんけん」
 お互いに少しバツの悪い笑みを浮かべる。昔話が必ず花が咲くものとは限らない。
「そんじゃね、真奈。あたしたち行くけん」
「たち?」
 彼女の目線を追った先には、どこぞの高校の制服を着た男子が立っていた。
「じゃあね、真奈。また今度」
「うん、お幸せに」
「ありがと」
 二人の背中を見送った。並んで歩きながら自然に手を握り合う姿は微笑ましくもあり、ほんの少しだけ羨ましくもある。肺の中の空気を吐き出してしまうほど、深くて長いため息をついた。
 それが合図だったように携帯電話が鳴った。
「もしもし?」
「アニョハセヨ」
「……なんで韓国語ねって」
 電話の向こうで由真が笑う。誰かがやっていたのが面白かったらしく、最近は電話のたびに「ニイハオ」だの「アロハ」だのと怪しい挨拶をされる。まあ、飽きっぽい彼女のことなのでそう長くはないだろうが。
 彼女とは高一の夏に知り合い、今では無二の親友と言ってもいい間柄だ。性格も育ってきた環境もまるで違うし、趣味にも好きなミュージシャンにもおよそ共通点らしきものが見当たらないアタシと由真の仲がいいのは周囲からするとちょっとした謎らしい。
「真奈、今どこ?」
「博多駅。今から帰ろうかと思って」
「地下鉄?」
「バス」
「えっ、なんで?」
「なんでって……。わざわざ遠回りする必要なかろうもん」
 アタシの家は中央区と南区の境目、平尾浄水にある。博多駅からは駅前の住吉通りを走る路線バスに乗ればたどり着くところだ。一方、地下鉄だと一度天神に出て、そこから七隈方面に乗り換える必要がある。
「どがんかしたと?」
「ううん、ちょ~っとお願いしたいことがあるとやけど……」
「なんね。回りくどか言いかたせんで、はっきり言わんね」
「実はね、天地下のお店に補正を頼んどるのがあるとやけど、それを取ってきて欲しかと」
(やっぱりか)
 諸般の事情で由真はアタシの家に居候していて、この手のお使いを頼む電話は割と頻繁にかかってくる。
「別によかけど、補正やったら自分で行かんと、合わんかったらいかんっちゃないと?」
「直したとはボタンの位置やけん、そういうことはないとやけど」
「ふーん……。でも、引き換え券は?」
「それは大丈夫。電話しとくし、あたしは顔パスやけん最初から券はなかし」
「ああ、そう」
 女子高生の分際で顔パス云々はともかく、品物を取りに行くだけなら文句を垂れるほどのこともないだろう。
 ただし、受け取ったらダッシュで店から脱出する必要はある。以前、同じように由真にお使いを頼まれたところ、そこのショップ店員と彼女がグルになっていて、興味はないと言ってるのにいろんな服を試着させられたことがあるのだ。
 さて、どうしたものか。
 市営地下鉄空港線が乗り入れる地下鉄天神駅は天神のど真ん中を南北に走る天神地下街の北側の区画を横断するように設置されている。一方、七隈線が乗り入れる天神南駅は四年前に南に伸延された新しい区画の南端にある。
 両者は二〇〇メートルほど離れていて、乗り換えのときは専用の改札を出て二時間以内に乗り換え先の改札をくぐればいいことになっている。たかだか二〇〇メートル歩くのに二時間もかかるはずはないので、その時間は天神地下街でお買い物をしてくださいということなのだろう。
 由真のお使いに少々時間がかかったところで、乗り換えに差し支えはない。
「用件はそれだけ?」
「あと、ついででよかけん、ソラリアのINCUBEで捜してきて欲しかもんがあるとよね」
「はいはい、もう何でも言うて」
 どうせ天神に出るのなら同じことだ。受け取る品物の詳細と捜してきて欲しいという品物のことを訊いて電話を切った。
「さて、と」
 わざとらしく一人ごちて、地下鉄の駅に降りるためにJRの駅舎を出た。構内から直接でも行けるのだけれど、地下の食堂街を通らなくてはならないので外にある降り口からのほうが便利がいいのだ。
 まだ夕暮れには少し時間があったけど、生憎の曇天で辺りは薄暗く、空はうっすらとした鉛色だった。南国九州と言えば燦々と陽光が降り注いでいるようなイメージがあるが、日本海に面した福岡はそんなこともない。
 ボンヤリと空を見上げた。
 考えないようにしていてもさっきの会話が脳裏をよぎる。正確に言えば跳ねっ返りなアタシの一挙手一投足に向けられる「……しょうがないな、真奈は」という苦笑いの表情が。
 三浦亮太――学年一の秀才くん。アタシが初めて付き合った男の子。
 最後に連絡をとったのはいつのことだろう。パソコンに触れないアタシのために、亮太はわざわざレターセットを買って手紙を書いてくれていた。女の子とは思えない悪筆のアタシと違って、やわらかくて綺麗な字が並んだその便箋は今でもアタシの宝物だ。
(……今ごろ、何しようとかいな)
 それはさっきの彼女に言われての疑問ではなかった。アタシはこの一ヶ月、何かを懐かしむようにそれらの手紙やあの頃のアルバムに見入る日々を送っていた。決して不幸な子供時代を送ったわけではないが、こと恋愛に関しては――別れたばかりの彼を除けば――亮太以外には浸れるような思い出の持ち合わせがない。
 そんなことを考えながら突っ立っていると、唐突に背後から声をかけられた。
「――あの、すいません」
 それは何でもない言葉だった。
 しかし、その声はアタシの背筋を凍りつかせた。低くて静かなその声に聞き覚えがあったからだ。
(……亮太!?)
 そんな馬鹿な――そう思いながら、弾かれたような勢いで振り返った。
 

2008.11.01 目次
「Change the world ~ Letters Side-B ~」

第1章   第2章   第3章   第4章   第5章   第6章   第7章
   
第8章   第9章   第10章  第11章  第12章  第13章  第14章
 
第15章  第16章  第17章  第18章  第19章  第20章  第21章
 
第22章  第23章  第24章  第25章  第26章  第27章  第28章
 
第29章  第30章  第31章  第32章  第33章  第34章  あとがき


「CHANGE THE WORLD」
(by Tommy Sims,Gordon Kenney and Wayne Kirkpatrick)

If I can reach the stars
Pull one down for you
Shine it on the heart
So you could see the truth
Then this love I have inside
Is everything it seems
But for now I find
It's only in my dreams

If I can change the world
I'll be the sunlight in your universe
You would think my love was really something good
Baby if I could change the world

If I could be king
Even for a day
I'd take you as my queen
I'd have it no other way
And our love will rule
In this kingdom we have made
Till then I'd be a fool
Wishing for the day

If I can change the world
I'll be the sunlight in your universe
You would think my love was really something good
Baby if I could change the world
Baby if I could change the world

(間奏)

If I could change the world
I would be the sunlight in your universe
You would think my love was really something good
Baby if I could change the world
Baby if I could change the world
Baby if I could change the world

 
もし、星に手が届くなら、
君のために一つつかんでハートに照らすよ。
そしたら、君は真実が見えるはず。
僕の中にある愛がすべてに思えても、
今はまだ、夢の中だけなんだ。

もし、世の中を変えることができるなら、
君の世界の太陽になる。
僕の愛が本当にいいものに思えるよ。
ベイビー、もし、世の中を変えることができるなら。

もし、王様になれるなら、
たとえ一日だけでも君を王妃に迎える。
他には考えられないよ。
僕たちが築きあげた王国で、二人の愛は支配する。
それまで、僕は愚か者でいるよ。
そんな日を願い続けて。

もし、世の中を変えることができるなら、
君の世界の太陽になる。
僕の愛が本当にいいものに思えるよ。
ベイビー、もし、世の中を変えることができるなら。
ベイビー、もし、世の中を変えることができるなら。

(間奏)

もし、世の中を変えることができるなら、
君の世界の太陽になる。
僕の愛が本当にいいものに思えるよ。
ベイビー、もし、世の中を変えることができるなら。
ベイビー、もし、世の中を変えることができるなら。
ベイビー、もし、世の中を変えることができるなら。


「Change the world」用イラストマップ



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