『琥珀色の遺言』(別館)

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2008.12.10 「Change the world ~ Letters Side-B ~」あとがき
 
と題してみたものの、実はあとがきで書くことが殆ど見つからないのが実際のところで。

タイトルの通り、本作は真名さんのところから二人の登場人物をお借りして書いた「Letters」のウラ話なのですが。
「Letters」が「志村正晴の視点から見た向坂永一の物語」であったのに対して、「Change the world」は「Letters」では狂言回しの位置にあった榊原真奈を視点人物に据えて「真奈の視点による真奈自身の物語」となっております。もちろん、前半部分(第17章まで)は文字通りの「side-B」なので、向坂永一の物語でもあるのですが。

実際のところ、「Letters」での真奈は本編である「砕ける月」や「Left Alone」に比べるとずいぶんと違って見えるというか(まあ、それは読者さまには概ね好評だったようですが)行動原理にいまいち曖昧なところがあって、どうも物語の都合に合わせた感が否めなかったわけです。

もちろん、書いているわたし自身は――ぼんやりとですが――真奈が何を思って行動していて、どういう意図で話をしているのかをバックグラウンドストーリーとして組み立てていたのですが、それを志村視点で描くのは無理だったのです。
しかし、「Letters」あとがきでも書いた通り、最初から真奈視点というのは物語の構造上あり得ないわけで、あの時点では「大量の処理できないウラ話」を抱えたままの「side-A」を書かざるを得ませんでした。
そういう意味では本作は「Letters」を補完するものと言えるかもしれません。その割にはずいぶんと話が広がってしまいましたが。(笑)

ちなみに本作執筆においては「えいみす2型」が重篤な発症を見せたおかげで「side-A」の軽く2倍、原稿用紙に換算して375枚(!)というもうちょっとで長編というところまでいってしまいました。
これは単純にプロットそのものが長い(「Letters」の分にプラスして後半の夜の天神編が付加されてますので)というのもありますが、秋月編を除けば登場人物がほとんど徒歩移動をしていることもあって、街の描写に相当な文章を割いたせいでもあります。とりわけ、後半の天神編は実際の移動距離と比較してもかなりの量を費やしてます。(これについてはそのうち、アメブロのほうで画像や地図を使った補完記事を書く予定です)

それともう一つ、この物語が長くなったのはこれまで本編で語ってこなかったエピソードや、「砕ける月」と「Left Alone」の間の変化について、2つの物語を繋ぐような展開を織り交ぜたことも理由です。特に父親の事件後の真奈の境遇などは、彼女の人格や非行少女化への重要なポイントであるにもかかわらず「砕ける月」の冒頭と「ブラジリアン・ハイ・キック」での亮太の伝聞でしか触れていませんでしたから。同様に父親の事件後にその現場を訪れることの意味など、本来であればもっと早くどこかに挿入しておくべきエピソードもずっとほったらかしにしていたわけですが、今回ようやく描くことが出来ています。

本作では他にも多くのエピソードが挟み込まれていて、とりわけ本作のラストの真名と永一のやり取りは「Left Alone」の解釈を大きく変えてしまうかもしれないなと思っています。
というのも、真奈が自分の気持ちを「村上への恋心」と認めるのは本編で由真がライバルに名乗りを上げてからの話なので、従来の解釈であればこの段階では真奈は本当に「何とも思ってない」ことになります。ところが、本作の解釈を加えると「あるいはそうかもしれない」程度には村上をそういう対象だと見ていたことになるのですよね。
この辺は後付け設定の多い作風そのものの問題かもしれません。

とにかく、おそらくシリーズ中最大の問題作(笑)である本作ですが、わたし自身はこれまで書いたことのない恋愛小説という位置づけでなかなか楽しんで書けました。もちろん、それと同じだけの産みの苦しみはあったわけですが。
読んでくださった方にも、同じように楽しんで戴けたのでしたら幸いです。


そうそう、最後になりましたがこれは書いておかなくてはならないでしょう。

「志村、扱いが悪くてゴメン!!」
 
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2008.12.10 「Change the world」第34章
 
 ――ねぇ、向坂くんって好きな人とかおると?
 
 午前様どころかほぼ朝帰りと言っていい時間。向坂が泊まるホテルの前での別れの場面でアタシはそんなことを訊いた。
 言葉を選ぶ素振りを見せたのは、彼なりに場の空気を読もうとしたからだろう。嘘でもいいから好きなのはアタシと言うべきと考えたのかもしれない。
 そう言わなかったのは、アタシがそんな見え透いた社交辞令を求めていないのを感じたからだと思う。代わりに向坂は「……気になってる子ならいなくもないけど」と彼らしい物言いで白状した。
 卒業式の後に彼のところへ来て告白したのは、何と、気になっているその子だったのだそうだ。
 
「……へぇ、寺田さんっていうと。下の名前は?」
「亜紀。二年のときのクラスメイトでね。ほら、話しただろ。俺が文化祭の出し物で劇の主役をやるところだったって話。あれを仕切ったのが彼女なんだ」
「演出家と主演男優の仲ってわけ?」
「怪我で舞台に穴を空けた主演男優だけどね」
 向坂が小さく笑う。ちなみに劇は「王子と乞食」で、向坂の代わりに舞台に立ったのは志村だったというから驚く。
 どんな子なのか教えろという質問に向坂が答えたところによると、寺田亜紀は小柄でちょっとおっとりした感じの、平たく言うとアタシとは正反対のタイプらしい。
「やっぱり、男はそういう可愛かタイプのほうがいいとやねぇ」
 わざとらしくため息をついてやる。
「そういうわけじゃないよ」
「口ではどがんでも言えるやん。結局、そういうタイプを選んどるとやし」
「だから」
「ふーん、どうせアタシみたいな可愛げのない大女はストライクやないとよねぇ」
「えーっと、何て言えばいいのかな……」
 向坂はそこから先を言いよどんだ。本当に困っているようだったので、そろそろ許してやることにした。
「冗談って。――よかったね、向坂くん」
 その言葉は本心だった。
「……真奈ちゃんに先に言われたけどさ」
「ん?」
「本当はこの電話は、それを報告するためのものだったんだ。それも約束だっただろ?」
「そうやったっけ?」
 今度は確信犯でとぼけた。その約束はしっかり覚えている。
 ――もし、彼女ができたら最初にアタシに報告して。
 おかしな話だけれど一夜を共にしたことでアタシの中に生まれたのは、向坂を何百キロも離れた遠い地にいるもう一人の自分のように思う不思議な感覚だった。それはアタシにジェラシーではなく、彼の身に訪れた小さな幸せを素直に喜ぶ気持ちを持たせてくれた。性別を越えた親友というのがもし成立するのなら、アタシと彼がそうなのかもしれない。
「大事にしてあげんといけんよ?」
「……ああ。分かってる」
「それと、もし、これからアタシのことが話に出ることがあったとしても、アタシを名前で呼んだらダメ。榊原って苗字で呼ぶこと」
「どうして?」
「当たり前やろうもん。付き合い始めたばっかりの彼氏が他の女の子を名前にちゃん付けで呼んだら、その子が気にするやんね」
 何でそんなことが分からんかな、この朴念仁は。
「とにかく約束」
「……分かった、そうする」
「そうして。――じゃあね、彼女とお幸せに」
 笑いながらそう言って電話を切った。
 
 別れ際に向坂に言われたことが脳裏に甦る。
 
 ――真奈ちゃんこそ、好きな人がいるんじゃないのか?
 
 最初はアタシへの小さな反論かと思った。けれど、向坂の表情にはそんな色は見えなかった。そして、彼がアタシに何を言わせたいのかは見え見えだった。
 
 ――言うたろ。あいつはアタシにとってそがん相手やなかって。
 
 アタシが村上恭吾という男に抱いているのは今よりまだ幼かった日の憧れ、初めての失恋――そんな甘苦しい思い出ばかりではない。
 それは後悔と申し訳なさ。そして何より、アタシとアタシの父親を暖かく見守ってきた男を信じられなかった自分への強烈な自己嫌悪だった。そんなアタシが、仮に彼のことを好きだと思い続けていたとして、どうしてそれを口にできるだろう。

 ――でも、大切な人なんだろう?

 ――そうやけど。

 向坂はアタシに掛ける言葉を見つけられなかった代わりに、そっとアタシを抱きしめた。
 
 ――だったら、約束して欲しいんだ。どんなことがあっても諦めないって。真奈ちゃんの気持ちは簡単には届かないかもしれないけど、それでも手を伸ばし続けることを諦めないって。
 
 彼が言わんとすることの意味がよく分からなかった。
 
 ――どうして、向坂くんがそがんこと思うと?
 
 向坂はアタシを抱く腕に少しだけ力をこめた。
 
 ――届かなかったから。
 
 ――えっ?
 
 ――俺の手は正春に届かなかったから。そして、もう二度と届くことはないから。でも、真奈ちゃんの手は大切な人に届くところにある。……だから、諦めて欲しくない。
 
 村上への気持ちが恋愛感情へ変わっていくかどうかはアタシ自身にもよく分からない。それでも、そう思えるときが来たら自分に嘘はつかない。それだったら約束する――アタシはそう答えた。
 向坂は返事の代わりに最後にもう一度、アタシを強く抱き寄せた。
 
 エントランス前の車寄せにパールホワイトのフェアレディZが滑り込んできた。ハザードを灯して村上が降りてくる。
 この後の用事は中学時代の友人の結婚式だそうで、アタシを送った後は直行できるように村上はスーツに着替えている。韓流スターのような甘いマスクと理知的な雰囲気を強調するような眼鏡、普段の堅苦しさとは正反対のジャンフランコ・フェレのタイトなシルエットのグレイのスリー・ピースとボルドーのネクタイ。結婚式なのにシルバーじゃなくていいのかと訊いたら「そんな席じゃない」と一蹴された。まあ、別にどうだっていいけど。
 腹立たしい話だけど、まるでドラマのワンシーンのようにその立ち居振る舞いは際立っている。歩いていた女性たちの大半が思わずそこで足を止める。大げさではなく本当にそうなのだから呆れるしかない。
 村上は自分に向けられる視線などまるで気にせず、テキパキとZのトランクに買い物袋を収めていく。
「誰が食うんだ、こんなに」
 呆れ顔は無視。全員女の子だからそんなに用意しなくても、とは祖母も言ってたけど、男子の目のないところでの女子高生の食欲を馬鹿にしてはいけない。
 トランクの蓋をちょっと乱暴に閉めて運転席に回る村上を待たせて、目についた自動販売機に駆け寄った。ブラック・コーヒーを二つ買う。
 助手席のシートに身体を滑り込ませて、ドリンクホルダーに買ってきた缶を置いた。
「忘れとった」
「……何を?」
「約束しとったやん。手紙が外の祠から見つかったらコーヒー奢るって」
 村上の怪訝そうな表情はすぐに納得したものに変わった。
「俺も忘れてた。なんだ、別にどうでもよかったのに」
「そういうわけにはいかんよ。あんた、後になってから嫌味ったらしかこと言うけんね」
「俺はどんな人間だと思われてるんだ?」
 返事の代わりに鼻を鳴らしてやる。村上は黙ってコーヒーのプルタブを起こした。
 Zは車寄せを離れて駐車場を周回する。とにかく敷地が広いので出口までは結構距離があるし、おまけに誘導員がどう考えても無駄なルートを走らせてくれるので国道に出るのには時間が掛かった。
「……どうだったんだ?」
 村上が言った。こっちを向く気配はない。この男はいつもそうだ。
「何が?」
「秋月での一件さ。上手くいったのか?」
 何と答えればいいのか、ちょっとだけ迷った。あれが上手くいった結果なのか、今でも自信を持てていないからだ。
 けれど、少なくとも悪い結果ではなかったはずだ。
「うん、まあまあってとこかな」
「そうか……。それならいい」
 村上の一言はアタシに言ったというより、自分が納得するための呟きに聞こえた。
「――ねえ、この車にクラプトンのCD載っとる? <アンプラグド>以外で」
「載せてる。<ピルグリム>と<クラプトン・クロニクルズ>」
「ベスト盤のほう」
 村上は黙ってダッシュボードを指差した。蓋を開けるとこの前とは打って変わってロック関係のアルバムが詰まっていた。してみるとあのときのセレクションはやはり嫌がらせだったのか。
 まあ、いい。その中から<クラプトン・クロニクルズ>を引っ張りだした。CDをコンポのスリットに射し込む。スキップボタンで二曲目の<チェンジ・ザ・ワールド>を選んだ。

”Baby if I could change the world ”

 もし、アタシにそんな力があったとしても、向坂の心を照らして氷を溶かす役目はアタシのものではない。それは少しだけ切なかった。
 あの朝、ホテルに入っていく向坂を呼び止めたアタシは、彼のところへ駆け寄って頬にキスした。

 ――幸運のおまじないやけんね。

 ほんの少し前まで情熱的に肌を合わせておきながら、最後のキスが唇でないのは逆に面映かった。でも、アタシと向坂永一のお別れの挨拶にはそのほうがピッタリだったはずだ。アタシは今でもそう思っている。

<了>
 

2008.12.10 「Change the world」第33章
 
「――なぁ、真奈。ひとつ訊いていいか?」
「なんね」
「どうして俺は、せっかくの非番に呼ばれてもいないパーティの買い出しなんかに付き合わなきゃならないんだ?」
 村上が仏頂面でアタシを見る。もっとも、この男はアタシと過ごす時間の半分以上はこんな感じなので、今更気にかけるほどのこともない。
 三月ももうすぐ終わり。というより、三年間の高校生活も明日で終わりだ。
 卒業式の後は例年通りに講堂で謝恩会があって、その後は馴染みのある先生を囲んでの二次会だったり、所属していた部活主催の追い出しコンパがあったり、それぞれにイベントが催される。
 アタシはというと、去年に引き続いて謝恩会でタキシードを着てダンスの男役を務めた後は特に予定がない。所属していた空手部には幹事向きの人材がいなくて何も企画されていないし、助っ人を務めたところからのお誘いはあちこちからあるけど、あっちに出てこっちに出ないと角が立つので全て遠慮させてもらっている。
 というようなことを由真と三人組の前で口を滑らせたのが間違いだった。
 ――やったら、みんなでパーティしよう!! もちろん、料理は真奈の担当で!!
 何が「やったら」で何が「もちろん」なのかまったく見当がつかないが、とにかく、アタシの知らないところで話は決まってしまった。場所は平尾浄水のアタシの家、参加者はアタシと由真、恵と慶子、千明のいつもの三人組、空手部の部長にして生徒会長の美幸、その生徒会仲間が三人という結構な大所帯。
 そういうわけで前日の今日、アタシは買い出しのために糟屋郡にあるショッピングモールまで来ているのだった。村上を運転手兼荷物持ちとして。
「別によかろうもん。休みっていうたって、どうせ暇なんやし」
「暇じゃない。おまえに呼び出されなかったら、球を撞きにいくつもりだったんだ」
「ビリヤード? 誰かと約束しとったと?」
「……いや、一人で」
「あんた、何でそがん暗いと?」
「大きなお世話だ」
 憮然とした横顔に更なる追い討ちをかける。
「しょうがないやん。あんたがバンディット壊したけん、アタシ、足がないっちゃもん」
 村上の頬が引き攣る。
「……壊したんじゃない。壊れたんだ」
「何が違うとねって。どーせ調子に乗って、力いっぱいアクセル吹かしたっちゃろうもん」
「おまえと一緒にするな。初代のバンディットはオーバーレブさせすぎてエンジンをオシャカにしたくせに。250のバイクをエンジンブローさせた奴なんか初めて見たぞ」
 ちくしょう、古い話を。
「ふん。とにかく、あんたのせいで身動きとれんとやけん、素直にアッシーくんしとけばいいと」
「おまえ、それ、死語だぞ」
「せからしか」
 アタシの愛機、スズキ・バンディット250V(ちなみに二代目)はアタシがフェアレディZを借りる代わりに村上に貸し出されたあの日、持病の不整脈が悪化して心筋梗塞を起こし、修理工場に担ぎ込まれた。
 エンジンを降ろして調べてみたところ、幸いにもエンジンブロックには損傷がなかったので部品さえ揃えば修理は可能との診断だった。
 しかし、古いバイクなのでメーカーサポートはとっくに終わっているし、パーツ取りのために状態の良いエンジンを捜すのは極めて難しいのが現実だ。大学の入学祝い(無事に受かった)に車を買って貰えることもあって、三年付き合った愛機は泣く泣く廃車することとなった。
 ちなみにアタシが秋月から電話をかけたときには、村上は動かなくなった一四〇キロ余りの鉄の塊と一緒に呆然と志賀島から見える玄界灘を眺めていたのだという。脳裏に浮かんだその情景があまりにも哀れだったので、「他に行くところはないのか?」という疑問を投げつけるのは差し控えた。
 ――絶対、俺のせいじゃないと思うんだがな。
 村上はあれから、アタシと顔を合わせるたびに不服そうにそう呟いているけど、責任を否定する材料もないのでいつの間にか尻窄みになってしまう。
 まあ、本当はエンジンの傷みそのものは経年劣化なので、村上に一〇〇パーセントの非を負わせるのは酷な話ではある。ただ、この男を黙らせられるチャンスなど滅多にないので意地悪く被害者面をしているわけだ。
 ショッピング・カートに山ほど食材とお菓子を買い込んで、ついでに飲み物もペットボトル入りのジュースを何本か買い込んだ。現職の警官の前でアルコール類を買うわけにはいかないので、それだけは後で近所に買いに行くことにしよう。それに、いざとなれば由真の部屋の備蓄を出させるという奥の手もある。
「卒業記念でホームパーティか。最近の女子高生は豪勢なもんだな」
「いいやん、別に。あ、来たいとならあんたも来てよかよ。女子高生に囲まれてハーレム気分が味わえるかもね」
「冗談はよせ。何処の世界に囲まれたが最後、ケツの毛までむしられるハーレムがあるんだ」
 ちぇっ、たかるつもりなのはお見通しか。
「それ以前に、俺がおまえの家に上がれるわけないだろう」
「去年の夏に来たときは上がったやん」
「あれは仕事だ」
 祖父母にとって村上は娘婿であるアタシの父親を告発した男だ。
 当然、好意的な目が向けられるはずもない。特に祖母は一時期、決して珍しくないその苗字を見ることさえ毛嫌いしていて、村上がある事件に関してアタシに事情を訊くために平尾浄水を訪れたときには、追い返しこそしなかったものの露骨に顔を強張らせていた。
 告発に至った事情を知った今は反応はかなり軟らかいものになった。
 けれど、人間というのは一度抱いた印象をそう簡単に変えられたりしない。年齢を重ねてしまった祖父母は尚のことだ。毛嫌いは気まずさに変わっただけで好意的な目が向けられないのは今も変わらない。村上もそれを察しているから滅多にウチに来ないし、来ても塀の外で突っ立ってアタシや由真が出てくるのを待っているだけだ。
「軽ーい感じで「こんちはー!!」とか言うたら、案外すんなりいくかもしれんよ?」
「アホか」
 村上は心底うんざりしたような目でアタシを見た。
「くだらないこと言ってないで、早いとこ済ませてくれ。俺は夕方から用事があるんだ」
「あー、そうですか」
 調子に乗ってわざと時間をかけてやりたくなるけど、アタシも明日に備えていろいろと準備があるのでさっさと買い物を済ませた。
 村上が車を回してくる間、正面エントランスの脇のスペースにある椅子に座っていたら携帯電話が鳴った。登録されていない番号からで誰からかは表示されていない。プププッという音がしたので同じソフトバンクだけど心当たりのない番号だ。
 まあ、いい。悪戯なら切れば済むことだ。
「もしもし?」
「ああ、真奈ちゃん。俺、向坂だけど」
「向坂くん!?」
 思わず声が裏返りそうになる。
「ど、どうしたと?」
「……いや、携帯電話を買ったから。約束しただろ、買ったらすぐに番号を教えるって」
「そうやったっけ?」
 確かにそんな約束をしたような記憶がある。
 それにしても律儀な男だ。そう言えば、博多駅に見送りに行ったときにも「東京に着いたら電話してよ!!」と言っておいたら東京駅の公衆電話から掛かってきた。
 あれっきりと思っていたら実は二回ほど電話が掛かってきていて、アタシたちは話をしていた。
 特に中身のある話ではない。どうやら長電話が苦手なところまで似ているようで、適当な近況報告をしたり、志村の今さらな大学受験(恐ろしいことに何処かに潜り込んだらしい)の話をしたり、何の興味が湧いたのか知らないけど空手の話をしたり――そんな他愛もない内容ばかりだ。
 あの夜に関することは、お互いに億尾にも出さなかった。
「ねえ、向坂くんとこ、今日が卒業式やなかった?」
 向坂は「ん?」と訊き返した。
「……そうだけど。何で真奈ちゃんがそれを?」
「志村のメール。アタシんとこの一日前やったけん、覚えとうっちゃけど」
 あの男からはちょくちょくメールがくる。最初はダラダラと長い文章だったけど、アタシの返事が短いのに合わせるようにどんどん短くなってきていて、最近はどんなに長くても三行以上のものは来ない。
「何か、良かことあった?」
「えっ?」
 うろたえたように声が裏返った。
「いいことって……何が?」
「ううん、特に何てわけやないけど。女の子から「第二ボタン下さい!!」とか言われんかったとかなーって思うたっちゃけど」
 ――そんなわけないだろ。
 想像していたのはそんな答えだ。しかし、向坂の返事は違っていた。
「実は、そうなんだ」
「エーッ!?」
 今度はアタシの声が裏返る番だった。
 

2008.12.10 「Change the world」第32章
 
 ベッドに横になって、真っ白なクロス貼りの天井を見上げる。
 豪華だけど薄っぺらな内装は如何にもそのための部屋という感じだった。部屋のど真ん中を占領しているキングサイズのベッド、アンティークっぽい造りのソファとテーブル、クリーム色の遮光カーテン。壁のあちらこちらに架けられている鏡にシーツに覆われた自分が映っていると思うと何だか恥ずかしい。
 暖房がうっすらと効いた室内は火照った身体には少し暑かった。枕元に手を伸ばしてエアコンのスイッチを切る。一人なら間違いなくシーツを蹴飛ばしているところだけど、何も身に着けていないのにそんなはしたない真似はできない。
 アタシたちは今泉にあるラブホテルにいた。
 西通りを逆戻りして国体道路を渡り、狭苦しい路地を抜けると今泉だ。南天神というのは警固と大名、今泉を指すのだけれどその中で一番南側になる。大名と同じく古びた建物と真新しいマンションが入り混じるように建つ半分商業地、半分住宅地といったところだ。ど真ん中にある今泉公園の周りのビルにはカフェや居酒屋といった店がチラホラ見える。
 しかし、今泉のもう一つの顔はラブホテル街だ。何せ公園のど真ん前のファミリーマートの二階から上がホテルになっているし、周囲にも多くのホテルが軒を連ねている。
 今泉を選んだのは単純に近かったからだ。
 他に天神周辺のホテル街といえば春吉橋の袂、屋台の通りがあるところの対岸と博多湾に突き出した須崎埠頭ということになる。しかし、どちらも歩いていける距離ではなかったし、この時間にカップルがタクシーを拾って春吉、または須崎埠頭へやってくれと言うのは運転手に向かって「今からセックスしに行きます」と告げているのに等しい。それはアタシの乙女心が許さなかった。まあ、自分から向坂をホテルに誘っておいて乙女心もへったくれもないもんだが。
 それでも、さすがに一緒にお風呂には入れなくて、別々にシャワーを浴びてベッドに入った。お互いに気を遣い合うような一回目が終わって、ほんの少しの休憩を挟んで二回目をした。続けざまだったことに少し驚いたけど、どんなに諦めきったジジくさいことを言っていても十九歳の男子なわけで、驚くには値しないのかもしれなかった。上手なのかどうかは、前の彼氏しか知らないアタシにはよく分からない。
 ――それにしても、まさか、こんなことになろうとは。
 隣に向坂がいないのをいいことに盛大にため息をついてみる。
 客観的に見れば、アタシがしていることは昨日知り合ったばかりの行きずりの男との一夜のアヴァンチュールだ。積み重ねた過去もなければこれからの未来もない。本当にただ、この夜の感情に任せて肌を合わせたにすぎない。
 他人が言うほど男嫌いでもなければ性的なことに潔癖なわけでもないけど、自分にこんなことができるとは夢にも思わなかった。
「どうかしたのかい?」
 向坂が戻ってきた。
「何が?」
「いや、何だか笑ってたように見えたから」
「向坂くんの格好見て、可笑しかったけんやろ」
「ひどいな。ま、自分でも似合わないなって思うけど」
 トイレに行くだけにわざわざ服を着るのは面倒だ。だから、向坂は備え付けのバスローブを羽織っていた。それがほっそりした体格とはかなりのミスマッチなのだ。まあ、バスローブを上手に着こなせる人間を石田純一以外にアタシは知らないけど。
 隣に横たわるかどうか迷って、向坂はベッドの縁に腰を下ろした。アタシからは彼の背中しか見えない。
 その肩が小さく上下した。笑ったのだと気づくのには少し時間がかかった。
「どうしたと?」
「いや――まさか、俺と真奈ちゃんがこんなことになってるなんて、志村は想像もしてないだろうなって思って」
「そうやね」
 人となりを知らないアタシはともかく、向坂がこういうことをするのは志村には意外なことなのだろう。由真はアタシの行動を想像くらいしているかもしれないが。
「志村にバレたら、メチャクチャ冷やかされるやろうね」
 向坂は振り返って顔をしかめた。
「その程度で済めばいいけど、多分、ぶん殴られるだろうね。てめぇ、抜け駆けしやがってって」
「どうして?」
「あれっ、気づいてなかったのか。真奈ちゃんって志村のタイプなんだよ」
「アタシが!?」
 思わず上半身を起こす。もちろん、シーツの胸元はしっかり押さえて。
「志村が言うたと?」
「いいや。でも、見てれば分かるさ。あいつは同級生とか、まあ、一つ二つ年上くらいの女の子にはまったく興味を示さないのに、真奈ちゃんだけはジーっと見つめてたからね。ははぁ、こりゃそうなんだなって」
「なんかフクザツ」
 しかし、そうであれば志村のアタシに対する微妙な態度も合点がいく。なんだかんだで邪険にしたことに一抹の後悔を感じたけど、志村だって最後はアタシをほっぽりだして由真一辺倒だったのだから文句を言われる筋合いではない。
「人のことはよかけど、向坂くんはどうなん?」
「真奈ちゃんのこと?」
 コクリと頷いてみせる。向坂はちょっと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「もちろんタイプだよ。ストライクゾーンのど真ん中」
「うっわ、ウソくさっ」
「そんなことないさ。本当だよ」
「信じられんよ。向坂くん、嘘つきやもん」
「……俺が何の嘘を?」
 ポカンとした顔。
「いいと。とにかく、嘘つきなんよ」
「訳が分からないな」
 そうだろう。おそらく、無意識に口にしたことだろうから。
 ――好きだよ。
 行為の最中に向坂はアタシの耳元でそう囁いた。
 けれど、それはアタシが同じ言葉を口走ったことへの返事でしかなかった。考えてみれば当たり前のことだ。彼にとって今、この場にいることすら予想外の出来事であり、当惑を隠せないことなのだから。アタシが彼に抱いているのと同じ気持ちを彼が抱いているはずはなかった。
 それが分かっていて、何故、アタシは彼に抱かれたのか。
 おそらく、他に方法を思いつかなかったからだ。どれだけ言葉を尽くしたところでアタシの中に向坂の痕跡を刻むことはできなかった。同じように言葉だけで彼の記憶にアタシの存在を残すことはできないだろう。
 もちろん、今夜のことだっていつまでも記憶に留まるとは限らない。けれど、少なくともアタシは向坂永一という男の存在を実感することができた。それに彼の言葉を信じるなら、アタシは彼の最初の女性なのだ。それで充分だった。
 
「三月だっていうのに冷えるね」
 エアコンを切ったせいではないだろうけど、向坂は寒そうに小さく肩を震わせた。
「横に来んね」
「ああ」
 向坂がシーツに身体を滑り込ませる。ゴソゴソと身体を動かしているのはバスローブを脱いでいるのだろう。
 温もりを感じようと傍に寄る。
「あれっ?」
「どうかした?」
「ねえ、お母さんの不倫相手の奥さんに刺されたと、脇腹って言いよらんかった?」
 アタシの手は彼の腹部に触れていた。へその少し下の辺りの皮膚がちょうどナイフの刃くらいの幅で捩れて手術痕のように違う手触りになっている。
「これは別のときに刺されたんだ」
「……そがん、何回も刺されとうと?」
 思わず呆れ声になってしまう。どんな人生を送っていればそんなことになるのか。
「ひょっとして、去年の秋の大怪我ってこれのこと?」
「何でそれを――」
 そこで向坂は訊くのをやめた。アタシが彼の祖母の手紙を読んでいるのに思い至ったのだろう。
「何があったと?」
「ちょっとね。人に自慢げに聞かせるような話じゃないんだけど」
「えーっ、聞きたい」
「……面白い話じゃないよ?」
「分かっとうよ。でも、向坂くんのことやったら、何でもいいけん知りたいと」
 詮索はするのもされるのも嫌いだ。だから、普段のアタシは絶対にこんなことは言わない。
 けれど、今は違っていた。
 高校二年の秋、彼の身に起こったとても悲しくて残酷な出来事を、向坂は思い出すようにポツリポツリと話し始めた。
 
 白川正春。向坂が幼い頃に住んでいた町の名士の息子。温室で美しい花を育てていて、そこに迷い込んだ向坂に――誰からも声を掛けられなかった孤独な少年に――初めて優しい言葉を掛けた男。まともに学校に通えず字も満足に読めなかった向坂に勉強を教え、何かに興味を持つことや学ぶことの楽しさを教えた男。
 しかし、その男は同時に唾棄すべき所業に手を染めていた。確かなこととは言えないが自分に性的な虐待を加えていた兄を殺し、幼児を二人殺し、自らが愛した温室に火を放って家族を殺して姿を消したのだという。偶然のめぐり合わせによってその魔手から逃れたたった一人の人間が、他ならぬ向坂だった。
 去年の秋、もう逢うこともないと思っていた向坂の前に白川正春は戻ってきた。性別を変えて赤の他人とすり替わって。
 自分にとって全てだった人間との対峙は、向坂にとって残酷な二者択一だった。幼き日の約束を守るか、それとも彼を裏切るか。
 向坂はそのどちらも選ばなかった。自らの命をかけてその男に悔悟を求めた。彼の大怪我はそのために負ったものだった。
 白川正春は向坂を病院に運び込んだ後、忽然と姿を消した。その後については何も分かっていないのだという。
 
 話し終えた彼に何かを言うべきな気がした。けれど、掛けるべき言葉は見つからなかった。それは軽々しく「大変やったね」などと同情できるような話ではなかった。
 代わりに気になったことを口にした。
「マサハルって、志村の下の名前も同じやなかった?」
「字は違うけどね。最初は何の偶然かと思ったよ。もちろん、そんなに珍しい名前じゃないから俺のほうが過剰に反応しただけなんだろうけど」
「それが志村のこと、ほっとけんかった理由?」
「どうなんだろうな。同じ名前じゃなくても放ってはおけなかっただろうけど――いや、やっぱりどこかで重ねていたのかもしれない。だから、俺はあいつを名前で呼べないんだ」
「志村は名前で呼ぶばってんね。永って」
「いつか、あいつを名前で呼ぶことがあるかもな、って思ったこともあるけど、今さら呼び名を変えるのも難しいし」
「ま、そうやろうね。――ねえ、お腹の傷に触ってよか?」
「構わないけど……」
 当惑する向坂には構わず彼の腹部に手を乗せた。年頃の女の子がジェラシーを感じそうなほどほっそりした身体。正直、アタシはもう少し逞しいほうが好きだけど、男子にしては触り心地のいい肌を撫でるのは気持ちよかった――けれど。
「あれぇ?」
 向坂の顔を覗き込む。驚いたことにその顔は真っ赤だった。
「……俺のせいじゃないよ。真奈ちゃんが触るから」
「直接は触っとらんやん」
「仕方ないだろ。生理現象ってやつなんだから」
「それは微妙に意味が違うと思うけど。――でも、こっちはあんまりジジくそうなかね」
「当たり前だろ」
 恥ずかしいのか、向坂は子供っぽく頬を膨らませる。アタシはそこに軽くキスした。
「ねえ、最後にもう一回、しよ」
「そうだね」
 向坂は身体を起こしてアタシに覆いかぶさってきた。その首に軽く手を回しながら、今度はしっかりと唇を重ねた。
 

2008.12.10 「Change the world」第31章
 
「……俺、何か気に障るようなこと言った?」
「べ・つ・に」
 当惑しきった目がアタシの顔色を伺っている。
 多分そうなんだろうとは思っていたが、こいつは女心というものがホントに分かってない。存在するのを知らないのではと思えるほどだ。
 確かにスタバの立て看板にもメニューにも”営業時間は24時迄”と書いてある。アタシもそれは承知の上で店に入った。
 でも、まだ追い出されようともしてないのに腕時計に視線を落とす必要もなければ、時間切れを宣告するかのように席を立つ必要もなかったはずだ。アタシたちよりずっと長く居座っている女子四人組のガールズトークだって、まだしばらくは終わりそうになかったのだから。
「悪かったよ」
「何が悪かったとか分からんとに、謝ることなかよ」
「だから、何が悪かったのかって訊いてるだろ」
「自分で考えたらいいやん」
「……何なんだよ、いったい」
 無意味なことをしている、という自覚はある。
 一緒にいられるのはあと僅か。一キロにも満たない天神西通りを歩いて、向坂がホテルに入っていくのを見送るまでだ。どれだけゆっくり歩いても一〇分程度。
 出来の悪いラブコメのようなケンカではなく、もっと意味のある会話があるはずだ。けれど、何を話せばいいのか。こういう経験の乏しいアタシには思いつかなかった。
 代わりに思い切って勇気を振り絞ることにした。
「……手、繋いでよか?」
「えっ」
 驚いたように向坂がアタシを見る。答えが返ってくる前に向坂のダッフルコートのポケットに手を挿し込んだ。ほっそりした体躯には不似合いな大きくてゴツゴツした手に触れる。
「向坂くんの手、ぬくかね」
「真奈ちゃんの手はずいぶん冷えてるね。――なあ、こんな話知ってるかい。手が冷たい人は心が温かいって」
「それは俗説」
「そうかな。俺はまんざら嘘でもないと思うけど。逆の場合を考えるとね」
「なんね、まだ自分が心が冷たいとか言いたいと?」
「そういうわけじゃないけど」
 不思議だった。
 もう、その低い声を聞いても中学時代の彼氏の顔は浮かばなかった。そして、ずっと引きずり続けていた失恋の痛みも感じなくなっていた。
 決して忘れたわけではない。けれど、それは過ぎ去ったことなのだと思うことができた。
 やはり、アタシは向坂のことが好きなのだ。
 ――でも、それは実らない。
 同時に残酷な事実も脳裏をよぎる。遠距離恋愛なんてものに耐えられるのなら、そもそも前の彼氏と別れていない。仮に今、向坂に想いを伝えて彼がそれに応えてくれても、アタシと彼の間には九州と関東の遠すぎる距離が横たわっている。
 しかし、アタシがこの想いが実らないと自覚しているのはそれだけが理由ではなかった。
 アタシと向坂は似すぎていた。
 僅か一日ちょっとを一緒にすごしただけでそんなふうに感じられるのはおかしな話だけど、心根の奥の部分でアタシたちは同じ類の生き物だった。それはまるで群れに馴染めない一匹狼同士が偶然に出会ったように明らかなことだ。少しの自惚れを許してもらえるのなら、口数が少なくて他人と馴染まない向坂がアタシの前では普通の男の子なのは、彼もアタシと同じことを感じてくれているからのはずだ。
 それ故に相手の気持ちが手に取るように――喜びそうなことも、嫌なものが何なのかも――分かるだろうから、お互いをまるで自分のことのように思いやることができるだろう。
 けれど、それはいつの日か逆に重荷になる。相手の中に認めたくない自分の醜さと同じものを見てしまうに違いないからだ。
 そんなことを考えながら、押し黙って歩道を歩いた。
「なぁ、真奈ちゃん」
 向坂が口を開いた。
 横顔はこれまでに見た中で一番穏やかだった。口許には小さな笑みが浮かんでいる。アタシを見る目には何かを吹っ切ったような光が宿っていた。
「なん?」
「これは言わずに終わろうと思ってたんだけど、やっぱり言うことにするよ。――真奈ちゃん、俺に嘘ついてるだろ?」
「……何のこと?」
「祖母さんの手紙のことさ。君はそれを読んだはずだ」

 アタシは嘘をつくのが上手だ。
 褒められた特技ではないが、自分でも驚くほどスラスラと口から出まかせが言える。自分を良く見せる必要がないので自分のためにつくことは滅多にない。けれど、必要なら幾らでも嘘を並べ立てられるし、同じように沈黙を守ることもできる。そこに良心の呵責を感じることはあまりない。
 けれど、今はそのあまりない”いつか”だった。

「……どうして?」
 やっと搾り出せたのはその一言だった。
「思い出したんだ。祖母さんが自分の病気を知ってすぐに自分の部屋で手紙を書いてたのを。盗み読みなんかしないから誰宛てかは知らなかったけど、考えたら祖母さんは滅多に手紙なんか書かない人だったからね」
「それが?」
「なかったんだよ。その時――去年の六月の初めに届いてなきゃならないその一通だけが、あのスクラップ・ブックの中に」
「そがんと、ただ、古河先生が綴じ忘れとっただけかもしれんやん」
「俺もそう思った。だから、帰りに学校に挨拶に寄ったときに訊いたんだ。去年の六月の手紙がないのはどういうわけですかって。先生はその一通だけが見つからなかったって教えてくれたよ」
「それは……。でも、それとアタシが嘘ついたってのと、どがん繋がっとうと?」
 この期に及んでも抗った。不意の一言に対して見せてしまった沈黙が全てを認めるものであったとしても。
「古河先生が見つけきらんかったものを、アタシが見とるはずないやん」
「確かに俺もあのときはそう思った。けれど、何かがずっと引っ掛かってたんだ。それが何なのかは分からないままだったけどね。――けれど、二人で話していてようやく分かった」
「……何やったと?」
「君は俺によく似ている。自分には自分の考え方があるってことを強く思ってるし、同じように人の心がそれぞれだってことを知ってるから、何かを決めつけてかかったりしない。それなのに、あのときだけは違ったよね」

”感情がコントロールできなくなって、大切な孫を傷つけるのが怖かったからに決まってる”

 あの書斎でアタシは安斎啓子が孫と距離を取り続けた理由をそう結論付けた。それが愛情に由来するものであると向坂に言い聞かせるために。まったくの嘘だったとは思わないけど、恣意的に歪めたものであるのは事実だ。
「志村に俺の足止めをさせて、郷土史家の仕事に興味があるようなふりして自分だけ先に離れに入ったのは、祖母さんの手紙を探すためだったんだろ?」
 答えない。答えられない。
「そして、君は手紙を見つけた。そこにはおそらく、俺に知らせたくないようなことが書いてあったんだ。だから、君はその手紙を俺に見せずに、代わりに他の手紙から俺が傷つかないような答えを導き出した。そうだろう?」
「……そがんと、ただ、アタシの言葉尻を捉えて揚げ足とりようだけやん」
「そうさ。でも、間違ったことを言ってないのには自信があるよ」
「どうして?」
「嫌な特技だけど、他人の顔色から感情を読み取るのは得意なんだ。もし、君が何もしてなくて、あの結論も本当にそう思ってのものだったんなら、どうして、そんなに後ろめたさそうな目で俺を見るんだい?」
 アタシは本物の馬鹿だ。どうしてあのとき、二人を残してさっさとZを走らせなかったのか。そうすれば、この男のこんな言葉を聞かずに済んだのに。自分の後ろめたさから逃れるために、せっかくうまくいきかけていた嘘を自分で台無しにしてしまった。
「……ごめんなさい」
 他に言える言葉はなかった。
 手紙の内容を話さなくてはいけないような気がした。向坂もそれを求めてくると思った。
 しかし、向坂は小さく肯いただけだった。その眼差しがアタシをまったく責めていないのが逆に苦痛だった。
「手紙はアタシが持っとうよ。ここには持ってきとらんけど。――どがんする? 明日、見送りに行くときに持ってきたらよか?」
「そうだな……。真奈ちゃんはこれから家に帰るんだろ?」
 質問の意味が分からない。けれど、肯くしかなかった。
「帰るよ、真っ直ぐ」
「だったら、家に着いたらその手紙を破り捨ててくれ。いや、それだけじゃ足りないな。もう、どんなことをしても読めなくなるように燃やしてしまってくれないか」
「えっ……?」
 向坂の手がアタシの手を握り返してきた。今ごろになって自分が向坂のポケットに手を突っ込んだままだったことに気づいた。
 抜こうとしなかったのではない。話の間、ずっと向坂がアタシの手を離さなかったのだ。
「本当のことが知りたかったっちゃないと?」
「違うよ。――帰りの車の中で真奈ちゃんが言ったよね。どうせ正解が出せないんだったら、どれだけ自分に都合がいい答えを出しても文句は言われないって。ほら、何だったっけ、村上さんが言った台詞?」
「”真実とはバレない嘘のことである”」
「そう。俺は読みたくもない祖母さんの手紙より、真奈ちゃんがついてくれた嘘のほうがいい」
「向坂くん……」
「嫌なことを言わせて悪かったね。でも、言わずに帰ればきっと後悔するし、真奈ちゃんにもずっと苦しい思いをさせたはずだから。――だから、ホントにありがとう」
 ポケットから握り合った手を出して、向坂はアタシに向かい合った。とても丁寧に、しかしきっぱりとした態度でアタシの手を離そうとする。
 そんな向坂の手を自分から振り払った。代わりにアタシよりもちょっとだけ背が低くて、ちょっとだけほっそりした身体に抱きついた。
「……アタシ、まだ、帰りとうない」
 さっきまで言えなかったその言葉を、とても素直に口にすることができた。
 

2008.12.10 「Change the world」第30章
 
 大名の路地を縦横に走り抜けて、赤坂の中央区役所の裏辺りでようやく足を止めた。
「もう、追いかけて、きよらん……?」
 膝に手を置いて呼吸を整えようとするけどなかなかうまくいかない。いくらスタミナに自信があっても、アルコールと走りにくいブーツのハンデつきでは息が切れるのは仕方のないことだ。
 向坂は肩で息をしながら後ろのほうに目をやった。
「多分……大丈夫だと思う」
「そうね……。疲れたぁ……」
「まったくだよ……」
 二人とも吐息混じりでしかしゃべれない。
「ぜったい……アタシや、なかけんね」
「……何が?」
「日頃の行いが、悪かと。……まさか、ホントにあいつらと出くわすとか、思わんかった」
「俺もだよ。でも……行いが悪いのは、俺でもないよ」
「じゃあ、誰ね?」
「そうだな……」
 責任を押し付けあうような目で互いを見る。
「元はと言えば、志村があいつらをぶん殴ったのが原因だから、志村ってことにしよう」
「ここにおらんとに?」
「いないからだよ」
「……そうやね。賛成」
 不毛な議論に無茶苦茶な決着をつけて顔を見合わせると、どちらからともなくバツの悪い苦笑いが洩れた。
「叩かれたとこ、どがん?」
「顔には当たってない。肩の辺りを殴られただけだから大したことはないよ」
 向坂はグルグルと肩を回してみせる。その仕草が何となく子供っぽくて思わず笑ってしまう。
「よかった。――ねえ、それ、いつまで持っとうと?」
「えっ?」
 刃は畳まれていたが、向坂の手にはバタフライ・ナイフがしっかり握られたままだった。
「途中で投げ捨てようかと思ったんだけど、そういうわけにもいかないからね」
「やったら、記念に持って帰る?」
「よしてくれ、そんな趣味はないよ。――でも、真奈ちゃんのおかげで助かった」
 向坂がアタシの顔を見て笑みを浮かべた。
「何が?」
「俺の芝居に上手く合わせてくれただろ。あそこで真奈ちゃんに「えっ?」とか言われてたら台無しだったからね」
 あれは向坂の意図を読み取ったわけではなく呆気に取られていただけなのだが、まあ、結果オーライだろう。
 向坂はしばらく迷って、バタフライ・ナイフを路肩の側溝の蓋の間から溝に落とした。
「さて、これからどうする?」
「どこかの店でしばらく隠れとったほうがよかっちゃない?」
「俺はもう帰ったほうがいいような気がするけど」
「また、その話蒸し返す気? あと一軒って約束したやん」
「へいへい」
 肩をすくめる――それでも表情は笑っている――向坂を引っ立てて、大名の路地に戻った。
 大名というのは不思議な街だ。
 福岡の、というより九州の商業の中心地である天神の真裏にあるにもかかわらず、そこの一帯だけがまるで塗り残しのように都会の灰色と無縁だからだ。車がすれ違うのも難しい細い路地、狭苦しい土地に無理やり建てられた古い雑居ビル、地中埋設が進まずに蜘蛛の巣のように空に架かる電線、時間の流れからポツンと取り残されたような古民家、老舗という名前がピッタリの小さな工場、昔ながらの店構えのままで営業を続けている商店、その他、レトロな町並みという表現に必要なものが全て揃っている。
「へえ、こんなところがあるんだな」
 向坂は嘆息した。
「お昼やったら、もうちょっと案内できるとこがあるっちゃけど。この辺って家賃が安かけん、服関係の店とかこじゃれたカフェとかいっぱいあるとよ」
「ああ、閉まってるけどそれっぽい店があるね。真奈ちゃんもこういうとこに買い物にくるの?」
「たまにね。ま、ほとんど由真のお供やけど。このワンピース、その先を曲がったところにある店で買うたんよ」
「へえ。なかなか似合ってる」
「なかなか?」
「いえ、とっても」
「嘘ばっかり」
「ホントだって」
 まあ、嘘をついているのは向坂だけではない。このワンピースが大名のセレクトショップで売られていたのは事実だけど、着るアタシの意向など完全無視で買ってきたのは由真だからだ。どうでもいいけど、試着どころかその場にいないにもかかわらず、由真が買ってきた服がアタシの身体に合わなかったことは一度もない。本人すらよく把握してないサイズを彼女が熟知している理由はハッキリ言って謎だ。
「どこか、入る?」
「いいけど……そろそろ、アルコールはカンベンしてもらいたいな」
「そうやねぇ」
 しかし、夜の大名はかつての親不孝通りが担っていたような若者の盛り場だ。
 辺りを見回してみても、この時間になっても営業しているのはカフェや居酒屋、バー、ラーメン屋といった飲食店くらいしかない。ラウンドワンでの勝負と全力疾走で身体を動かしたといっても、空腹になるようなことはいくらアタシでもない。向坂は尚のことだ。
「じゃあ、カラオケは?」
 あまり期待はせずに訊いてみた。案の定、向坂は渋い顔をした。
「行ったことないんだよな」
「ホント?」
「嘘ついてどうするんだよ。歌は苦手なんだ」
「えーっ、アタシ得意っちゃけど」
「知ってる。観客でいいなら付き合うけど」
「それじゃつまらんやん。あーあ、向坂くんの歌、聴きたかったとに」
 仕方ない。もう十一時を過ぎているのでそんなに長くはいられないけど、国体道路沿いのアップルストアの二階にスターバックスがある。
 西通りまで戻って南へ歩く。その南端が面しているのが国体道路だ。
 ただし、この辺りの数百メートルのケヤキ並木の部分にだけはけやき通りという別名がある。この時間ではあまり意味がないけど、昼間は生い茂る葉っぱが作り出す緑のトンネルの心地よさを満喫することができる市内でも有数の散策路だ。
 基本的にはややお高めのマンションが建ち並ぶ住宅地なのだけど、六本松のほうに緩やかに登っていく道沿いには洒落た店も結構多い。亮太はその佇まいを見て「スケールを小さくした原宿の表参道みたいだ」と言っていた。行ったことのないアタシには、その喩えがあっているのかどうか分からないけど。
 アップルストアの横の狭い階段を上がって、スターバックスの店内に入った。アタシはいつものようにラテのエクストラショット追加。向坂はソイラテ。店内には数組の客がいたけど、もうかなり粘っていそうな女子四人組が少し騒いでいるだけで後は静かなものだ。
 国体道路を見下ろせるテラスに腰を下ろした。
 それからしばらくは取り留めのないことを話した。水炊きの席でアタシがあぶれる前に話題になった九州のインスタントラーメンを送ってやるために住所と電話番号を聞いたり、大学に進学したら一人暮らしを始めるというので、それなら固定電話は高くつくから携帯電話を持てと勧めたり、買ったらすぐに番号とメールアドレスを教えると約束させたり、そんな他愛もない話だ。
「あー、喉渇いた」
 苦みを増したラテはゴクゴクと飲むには向かない。仕方ないので喉を湿らせる程度にゆっくりと口をつけた。
「そりゃそうだよ。さっきからノンストップだからね」
「ふん、向坂くんがぜんぜんしゃべらんけん、アタシが一生懸命しゃべりよるとやん」
「確かにそうだね」
 むくれるアタシに悪かったと言い残して、向坂はトイレに立った。
 独りになると、急に自分の周りの温度が下がったような錯覚に捉われた。
 二つ向こうのテーブルのカップルの会話が耳に入ってくる。歳はアタシと違わないだろう。可愛いけどちょっと気が強そうな女の子と、大人しいけど優しい目をした男の子。映画の話をしている。ひょっとしたらアタシと別れた彼が行く予定だった試写会の話かもしれない。
 急に可笑しくなった。
 アタシは向坂に中学時代の彼氏との楽しかった思い出を、志村に別れたばかりの彼の面影を重ねていたはずだ。それなのに、いつの間にか過去の二人はアタシから離れていた。
(……やっぱり、好いとうとかな)
 声に出さずに呟いてみる。
 そうかもしれない。そうではないかもしれない。ただ、どちらであったとしても、向坂永一がアタシが出会ったことのない――そして、おそらくこれからも出会うことのない類の人間なのは間違いなかった。
 けれど、そう思うと暗澹たる気持ちになる。明日の午後の新幹線で東京に帰ってしまえば、アタシと向坂を繋ぐものはなくなってしまうからだ。
 

2008.12.10 「Change the world」第29章
 
 ――しまった。
 我ながら驚くけど、そう思ったときには身体が動いていた。
 手を振り払おうとしても、引っ張りあいで男の腕力と渡り合うのはアタシでも無理だ。
 なので、逆に身体ごと腕を押しやった。予想していないほうに力が働いて、ボウズ頭が後ろにひっくり返りそうになって慌てて踏ん張る。身体が密着するほど踏み込んで、がら空きの下腹部を膝でかち上げた。
「ふぐッ!!」
 ボウズ頭の体がくの字に折れる。
 しかし、声ほどには効いてない。やたら硬いものを蹴った感触だったのは、金的ではなく腰骨に当たったからだろう。
 それでも捕まれていた手は離れた。間合いを切るために地面を蹴る。
「あれっ?」
 ところがアタシの身体は宙に浮かず、後ろに向かって思いっきりたたらを踏んだ。慌ててバランスをとろうとしたけど脚がいうことを聞かない。
 ――やばい、倒れるっ!!
「真奈ちゃんッ!!」
 抱きとめてくれたのは、いつの間にか後ろに回り込んだ向坂だった。
 おかげで転倒は免れたけど、バランスを取り戻すのにはさらに数歩の千鳥足を必要とした。ふらつくアタシを支えようと向坂まで不安定な足取りになる。認めたくないけど、身長は――いや、たぶん体重も――アタシのほうが上だから仕方がない。
「あいたぁ、このくそったれがッ!!」
 グズグズしていると、身体を起こしたボウズ頭が拳を振りかぶって殴りかかってきた。まずい、避けられない。とっさにガードの手を上げたけどそれも間に合いそうにない。
 衝撃に備えて歯を食い縛ったアタシの前を灰色の影が横切った。
 寸でのところでアタシと身体を入れ替えた向坂だった。ボウズ頭を押し返そうと胴体に組み付く。
「やめろッ!!」
「なんや、きさんッ!!」
 ドスッ、という聞き苦しい鈍い殴打の音と共にほっそりした身体が吹っ飛んでいく。
「向坂くんッ!!」
 駆け寄ろうとしたアタシをボウズ頭ではない誰かが遮った。
 顔を上げた先には今になって痛そうに顔を歪めるボウズ頭の他に、サル顔の出っ歯と茶髪の真ん中分けがいた。公園でぶちのめした六人のうち、アタシがソラリアで対峙した三人だ。
「なんね、あんたたち!!」
「なんねやなかろーもん――って、なんやコイツ。えらい酒臭かぞ」
「女子高生やなかったとや?」
「どがんでんよかろーもん。とにかく、あんときのクソ生意気なオンナに間違いなかとやけん」
「そうばってんさ。あ、分かった。昨日はコスプレやったっちゃなかとや?」
「ああ、そーかも」
 ……そーかもじゃねーだろ。
 カーボン三枚複写のようにそっくりのだらしない物言いのせいで、誰がしゃべっているのかよく分からない。とりあえず、ボウズ頭の声に聞き覚えがなかったのは鼻の穴の詰め物がなくなっているせいだ。
 アタシの沈黙をビビっていると思ったのか、三人はニタニタ笑いながら近寄ってくる。
 もちろん、アタシはビビッてなどいない。大体、公園でたむろしているようなアホウどもの分際でアタシをビビらせようなんて三万年早い。まったく自慢にならないが、怖い相手と対峙した経験なら特売日に分けてやれるほどあるのだ。
 けれど、まずいどころの騒ぎではないのは事実だ。
 少々アルコールが入った程度なら立ち回りにたいした影響はない。実際にそういう状態で暴れたこともある。けれど、今のアタシの酒量は少々なんてものではなかった。しかも、向坂との勝負に躍起になったせいで余計にアルコールが回ってしまっている。
「まあ、よかたい。とにかく、昨日のお返しばさせてもらうけんな」
 ボウズ頭が指の骨をボキボキと鳴らす。アタシには何の脅しにもならないけど、その効果を信じているのか、一人悦に入ったような気持ちの悪い笑みを浮かべている。
 ――ふん、そっちの人数は半分やし、ちょうどよかハンデったいね。
 そう言ってやろうとしたとき。
「……いい加減にしろよ、彼女は関係ないだろ」
 向坂がむっくりと起き上がった。
「大丈夫ね!?」
「おかげさんで。おい、おまえら。彼女から離れろ」
「なんや、きさん。そのオンナの彼氏か?」
「あーっ、そいつ、俺ばくらした背の高か奴の連れったい!!」
 サル顔に向かってボウズ頭が喚く。
「なんや、オンナに守ってもろうたくせして、こがんとこでだけちゃあつけんなや」
 向坂はそれには答えず、代わりにちょっと不敵な笑みを浮かべた。
「――言っとくが、俺はこっちの人間じゃないんで、おまえたちが言ってることは半分くらいしか分からない。でも、一つ訂正しとく。俺は彼女の何者でもない」
「はあ?」
「彼女は六対二の状況を見かねて手を貸してくれただけだ。おまえたちの本当の相手は俺と、俺の連れだ。――まあ、その連れはここにはいないけどな」
「……やけん、なんや?」
「俺が相手をすると言ってるんだ」
 向坂は腰の後ろに回していた手を出した。
 アタシは目を疑った。意外と節くれだった大きな手には街灯の明かりを反射して禍々しく光るバタフライ・ナイフが握られていた。
「ちょっと!!」
 思わず叫んだ。向坂はニッコリと笑った。
「大丈夫だよ。これでもケンカ慣れしてるんだぜ。ナイフで人を刺して少年院送りになった話はしただろ?」
「あれは――」
「簡単なんだぜ。それに、なかなかいいもんなんだ。人間の腹の軟らかいところにスーッとナイフが滑り込んでいく感触っていうのは」
 淡々と恐ろしいことを口にする。もともと感情の読みにくい話し方をする男ではあるけれど、気負いも芝居がかったところもないのが、逆に奇妙なリアルさを醸し出していた。ひょっとしたら役者の才能があるのかもしれない。
 三対一で圧倒的に有利なはずのアホウどもも、その静かな迫力に押されてしまっていた。
「……なんやって。おう、刺せるもんなら刺してみろや」
「おうって。こっちもナイフくらい持っとうとぜって――あれっ?」
 素っ頓狂な声をあげたボウズ頭が眼を見開く。
「あーッ、それ、俺のッ!!」
「ああ、黙って借りてるよ」
 事も無げに向坂が言う。さっき、組み付いたときに掏り取ったのか。
「時間もないし、さっさと済ませようぜ」
 あまりと言えばあまりにも意外な展開に、三人だけじゃなくアタシまで呆然と彼を見つめた。その笑みがアタシのほうを見たときだけ、ほんの少し違うものになった。
(――真奈ちゃん、逃げるよ)
 アルコールで回転が鈍くなった脳みそにも向坂の意図が伝わってくる。
 向坂が変にナイフをチラつかせずに自然体で構えているせいで、アホウどもは完全に居付いてしまっている。その隙に向坂の背後ににじり寄った。
 ダッシュで逃げ出すにしても、背を向ければ後ろから襲い掛かられてしまう。つまり、追ってくる先頭の一人だけはぶちのめす必要がある。本当にナイフで切りつけるわけにいかない以上、それはアタシの役目だ。
 手を握ったり開いたりを繰り返して、どこまでやれるのかを自分の身体と相談した。脚を高く上げる上段や中段は無理でも下段と突きは何とかなりそうだ。足元か膝への足刀で出足を止めて顎にカウンターの掌底を叩き込む。そんなイメージを練り上げる。
 時間にすれば数秒の睨み合い。きっかけがあれば一気に弾けてしまいそうな怒気と緊張感がその場に立ち込めた。
 それを霧散させたのは遠くからの怒鳴り声だった。
「――こらーッ!! おまえたち、何ばしよるとかーッ!!」
「やばっ、警察やん!!」
 きらめき通り東口のほうで警邏中らしい二人組の制服姿が顔を見合わせている。いなくていいときにいて、いて欲しいときにいないのが警官という生き物だけど、今だけは素晴らしいタイミングだと言わざるを得ない。それにしても、ラウンドワン前とはずいぶん離れているのに揉めてるアタシたちが見えるとは見上げた視力だ。
「どかんすっとや!?」
 一人、影が薄かった茶髪の真ん中分けが喚く。サル顔が盛大な舌打ちで応えた。
「逃ぐっぞ。――クソッ、覚えとけよ!!」
 ステレオタイプな捨て台詞を残して三人が身を翻した。あっという間に西通りの角まで逃げて親不孝通りのほうに曲がっていく。アタシも逃げ足には自信があるが、あいつらと勝負したら勝てないかもしれない。
 あっけない幕切れに思わずため息が洩れた。
「ふん、逃げ足だけは速かね」
「……そうだけどさ、俺たちも悠長なことは言ってられないんじゃ?」
「えっ?」
 そうだ。アタシも向坂も思いっきり酒を飲んでいる。アタシは今さら卒業取り消しにはならないだろうけど、向坂は親族の耳に入れば面目丸つぶれだし、最悪、推薦入学に悪影響が出かねない。
「こらーッ、おまえたち、待たんかーッ!!」
 必死の形相とドラ声が迫ってくる。
 奴らを追い払ってくれたことには心からお礼を言いたいけれど、残念ながら捕まるわけにはいかない。幸い、そんなに若そうな警官ではなかった。大名の路地に逃げ込めば大丈夫だろう。
「向坂くん、逃げるよ!! はぐれんごとねっ!!」
「分かった」
 ちょっと乱暴に向坂の手を取って、アタシは走り出した。この期に及んでも冷静極まりない物言いに笑いそうになりながら。
 

2008.12.10 「Change the world」第28章
 
 天神西通りを南に歩くと、その中ほどに岩田屋の西通り側コンコースがある。
 昼間は待ち合わせや立ち話のメッカで、時には地元テレビ局のローカル・バラエティー番組がインタビューのロケをやっていたりもするところだ。西通りそのものが片側一車線の狭い道なせいもあるけど、この辺りは混み合う天神の中でも一番ゴミゴミしている。通りの向こう側は今や親不孝通りに代わる繁華街の大名なので、人が多いのはそのせいもある。
 ラーメンが意外にしょっぱかったので、ミスドでテイクアウトした口直しのコーヒーを飲む間、そこで立ち話をした。
「へえ、ここ、きらめき通りっていうんだ」
 向坂は少しだけ面白がるような口調で言った。コンコースから岩田屋の本館と新館の間を渡辺通りのほうに抜けていく路地のことだ。今、アタシたちがいる西通りに面しているのは西口。東口がある正面には駅ビルが壁のように立ちはだかっていて、場所によってはビルの二階部分を電車が走っていく奇妙な光景を見ることができる。
「変な名前やろ?」
「まあね。でも、担当者にその名前にした理由を訊いてみたくなる通りって意外と多いよな」
「確かにそうやね」
 この通りの中ほどにある、新天町から出てくる道と交差するその名も”きらめき通り交差点”は岩田屋の本館と新館、VIOROという真新しいファッションビル、ソラリアプラザに取り囲まれていて、休みの日の人通りは天神でも一、二を争うほどの多さになることで知られている。街全体がショッピング・モールのような天神の実質的な中心といってもいいところだ。
「あれ、何か分かるね?」
 四つ角の一つに建つソラリアプラザを指差した。七階か八階までがファッション・テナントや飲食店で、上の階には西鉄ソラリアホテルやフィットネスクラブが入っている。
「……さあ?」
「昨日、向坂くんたちがさんざん逃げ回った挙句に、アホウどもと鉢合わせしたビル。実際に鉢合わせしたとはビルの向こうの警固公園側の出口やけど」
「えっ、あれが!?」
 向坂はソラリアプラザの建物を見上げて呆然としていた。
「そう。どこをどう逃げてきたらあそこにに出てくるとか、未だによう分からんとよね。大体、同じソラリアでもステージとプラザってまともに繋がってないけんね」
「……?」
 怪訝な表情の向坂に、二人が逃げ回っていた駅ビル内のソラリアステージとソラリアプラザが別のビルだということを説明してやった。他のビルと違って、二つは駅やバスセンターを介してしか連結していない。同じ西鉄系列のビルなのにそうである理由は謎だ。
「……ちょっと待ってくれ。どうして真奈ちゃんが、俺たちがそのソラリアステージの中を逃げてたのを知ってるんだい?」
「居合わせたけんに決まっとうやん。具体的にどこって言うても分からんやろうけど、途中で追っ手がおらんごとなったろ?」
 三階のパーティグッズの店の前で二人がアタシの目の前を通り過ぎたことと、その後を追ってきた三人組を力尽くで足止めしたことを話した。
「そうだったのか……」
「そうったい。それとにまた公園で囲まれとうけん、何しようとかいなって思うたよ」
「まったく面目ないね」
 向坂は渋い表情をしていたが、アタシと目が合うと少し悪戯っぽい苦笑いに変わった。
「でもさ、まさか、この辺を歩いててあいつらと出くわしたりしないだろうね」
「そがんことなかと思うけど、もし、そうなったらアタシか向坂くんの日頃の行いによっぽど問題があるとやろうね。――ところで、まだ胃もたれしとうと?」
「少しね」
 向坂の腹にはまだ手が当てられている。まあ、ほんの数百メートルを歩いたくらいで腹ごなしになるはずなどないが。
「やったら、そこのゲームセンターで運動していかん?」
「運動? どんな?」
「何でも好きなのでよかよ。向坂くんって何が得意?」
「強いて言えば卓球かな」
「うわっ、すっごいイメージどおり」
「……大きなお世話だよ」

 きらめき通りにあるラウンドワン天神店の注意書きには”16歳以上18歳未満の方は午後10時以降ご入場できません”と記してある。
 アタシは十八歳だし、一年留年しているということは向坂は十九歳なのでセーフ――と思っていたら、この十八歳云々には高校生が含まれているらしかった。つまり、アタシたちにはどちらも入場制限が課せられていることになる。
 とは言え、アタシたちはどちらも身分証明書の提示を求められずにスムーズに中に入ることができた。ラウンドワンの店員が仕事をサボっているわけではもちろんない。向坂もアタシもまず高校生には見えないからだ。追い返されなかったのは嬉しいけど内心忸怩たるモノはある。
 勝負は向坂が比較的得意だという卓球から始まった。
 が、しかし。結果はアタシの圧勝だった。力任せのスマッシュが決まるたびに福原愛のガッツポーズの物真似をする余裕つきで。
「……何かムカつく」
「おっ、意外と負けん気強かとね」
 二つ目はダーツ。二人ともルールがよく分からなかったけど、電光掲示板に点数が出る機械だったので単純に点数勝負。向坂がど真ん中に二発入れて引き離されたときには焦ったけど、それ以外でコンスタントに的に命中させ続けたアタシが際どいところで逃げ切った。
「おやぁ?」
「次、行こうか」
 ただでさえ少ない口数がさらに減っている。怒っているわけではなさそうなので、囃し立てるのを抑えるだけにした。次の勝負で手を抜こうかとも思ったけど、それは失礼にあたるだろう。
 三つ目はバッティング。どちらが多く前に打ち返したかで競った。ただし、ホームランを打ったらそっちの勝ちという特別ルールつき。
 ここは少しだけ向坂が有利だった。どれだけ周囲から浮いた小学生時代を送っていても、まったく野球に触れないで育ったわけではないからだ。その点、アタシはバットというやつでボールを打ち返す感覚がイマイチつかめない。体育の授業でソフトボールをやったときはバントで転がして、自慢の俊足で無理やり内野安打にしていた。
 結果は向坂がヒット七本、アタシが三本で向坂の勝利。
「まだ、アタシがリードしとうけんね」
「そうかい? さっきから足元がふらついてるよ」
 向坂の指摘は単なる負け惜しみではなかった。それは四つ目のフリースロー対決で現れた。
 本来、バスケットボールはアタシの得意な競技に入る。正式な部員でもないのに中体連ではレギュラーとして起用されていたほどなのだ。
 ブランクがあっても負けはしない。
 そう思って自信満々に放ったショットはリングにかすりもしなかった。アルコールは明らかにアタシのフォームをバラバラなものにしていた。
 一方、向坂は最初の一本を外しただけで、あとは綺麗なレイアップで次々と点を重ねていった。五点先取のルールでやったのだけど、向坂が放ったラストショットがリングにも触れずにすっぽりと収まったとき、アタシはまだ0点だった。
「ズルかぁ。何ね、初心者とか嘘ばっかり言うてからさ」
「嘘じゃないよ。体育の授業でやっただけなんだから」
「えー、それであのフォームとか信じられんよ」
「志村が結構上手くてさ。どんなふうにやってたか、思い出しながら投げたんだ。昔から見様見真似でやるのは得意なんだよ」
 澄ました表情の裏側でほくそ笑んでいるのが見える。そういう笑みを浮かべていれば向坂は充分に魅力的な男だった。
 けれど、彼がそういう表情をすればするほど猛烈に湧き上がる感情があった。頭から追い払おうとしても追い払えない、安斎啓子の手紙を隠して嘘を並べ立てたことへの後ろめたさ。
「なんだい?」
 向坂の見返してくる眼差しで、自分が彼をジッと見つめていたことに気づいた。慌てて視線を逸らしたけど、却って不自然な感じになったように思えた。
「ううん、何でもなかよ。――ねえ、楽しんどる?」
 向坂は少し意外そうな顔をした。けれど、それはすぐに邪気のない笑みに変わった。
「ああ、楽しんでるよ。こんなにはしゃいだのはいつ以来だろう」
「……よかった」
 嘘ではあるまい。
 けれど、それでもアタシはその笑みに、向坂が大伯父の書斎で見せた底なしの井戸のような眼差しを重ねずにはいられなかった。どれだけ楽しんでいるように見えても、それは表面だけだ。彼の心の奥底は凍てついている。同類であるアタシにはそれがありありと感じられる。
 いや、本当はそうではないのかもしれない。氷のように冷えきっているのはアタシの心のほうだからだ。
「真奈ちゃん、次は何で勝負する?」
「そうやねぇ……」
 向坂に向かって、わざとらしく肩をすくめてみせた。
「もういい、疲れた。ちょっと酔いも回ってきたみたいやけん、この辺で終わろ」
「じゃ、勝負は二対二の引き分けってことで」
「そういうことにしとっちゃるよ」
 笑いながらボールをカウンターに返し、料金を精算してラウンドワンを出た。
「――さて、と。そろそろ、お開きにしようか」
 腕時計に視線を落とした向坂は、少し言いにくそうに切り出した。
「えー、もう?」
「だって、ずいぶん遅いよ。いくら、お祖父さんたちが旅行でいないからって、そこまで遅くなったらまずいんじゃないのかい?」
「そがんことなかよ。アタシの夜遊びは事実上、公認やけん。ねえ、昨日も行ったけど、アタシのバイト先でもうしばらく話さん?」
「いや、それは――」
 まだ、帰りたくない。
 その言葉を素直に言えればいいのだろう。けれど、それを口にするのは憚られた。アタシは向坂の何者でもなく、向坂もアタシの何者でもないのだから。
「あと一軒でよかけん、付き合うてよ」
「だから――」
「いいやん、一軒くらい。付き合うてくれたら、大人しく帰るけん」
「……しょうがないな。じゃあ、あと一軒だけだよ」
「オッケー、それじゃレッツゴー!!」
 心に巣食う闇を追い払うように無意味に大きな声をあげて、西通りの向こうにある大名のほうを指差した、そのとき。
 アタシの手首はガッシリした男の手に握られてしまっていた。
「……きさん、何しようとやって?」
 聞き覚えのない声。思考停止状態で振り向いた目の前には、アーミーグリーンのフライトジャケットを着込んだボウズ頭の剣呑な眼差しがあった。
 

2008.12.10 「Change the world」第27章
 
 屋台を出て、しばらく目的もなく歩いた。理由は主に腹ごなしだ。
 食べ過ぎたのか、向坂がさっきからやたらと胃のあたりをさすっている。料亭から通して考えてもアタシのほうが食べているはずなのにアタシは何ともない。これはアタシが女子らしからぬ大食いなのではなく、向坂が男子らしからぬ食の細さなのだ――ということにしておこう。
「どこ行く?」
「真奈ちゃんが連れてってくれるとこならどこでも」
「その言い方、微妙にズルかよね」
「仕方ないだろ。知らない土地なんだから」
「そうやけど」
 一〇時を過ぎても賑やかなのは盛り場だけで、いきおい、アタシたちは天神西通りへ足を向けることになった。
「まさか、帰れるとか思っとらんよね?」
 彼らが泊まっているホテルの前ではアタシが先に釘を刺した。
「そんなこと、思ってないよ」
「ならよかけど。――寒ッ」
 唐突に風が吹いて、思わず自分の肩を抱いた。さすがに三月の夜は肌寒い。アタシは由真に恐竜呼ばわりされるほどその辺の感覚が鈍いし、アルコールで身体は温まっているはずなのだけれど、それでも冷えるのだから本当は相当に寒いのだろう。
 向坂は無言で着ていたフリースジャケットをアタシの肩にかけた。新品なので彼の匂いはほとんどしないが温もりはしっかり残っている。
「……ちょっと、そしたら向坂くんが寒かろうもん」
「俺は部屋からコートをとってくる」
「えー、あの家出少年みたいなやつ?」
「悪かったな」
 向坂はすぐ戻ると言い残して走り出した。寒い外で待っているのも何なので、アタシも西鉄グランドホテルのロビーに足を踏み入れた。
 市内に住んでいればホテルに泊まる機会はないけど、もし泊まるのなら春吉のイル・パラッツォかこことアタシは決めている。
 決して真新しくもなければ華美さもないけど、老舗のホテルらしい落ち着いた雰囲気は出そうと思って出せるものではない。「伝統だけはカネをかけても作れない」と、実家が北九州でホテルを経営している村上が尤もらしいことを言っていたが、表現はともかく、そこに漂う空気が積み重ねられた時間と伝統を感じさせるのは事実だ。他に高級ホテルが幾つもオープンした今でも、このホテルを定宿にしている有名人は多いのだという。
 降りてきた向坂とすれ違ったら困るので、エレベータの近くにある柱に背中を預けて待つことにした。ボンヤリと辺りを見回していると、屋台で向坂が言ったことが耳の奥底でリフレインする。

 ――さっきから聞いてると、憧れの人のことを話してるようにしか聞こえないんだけどな。

 村上恭吾がアタシにとって憧れの人というのは、まんざらハズレでもない。
 アタシが村上に出会ったのは、母が亡くなってすぐのことだった。自炊能力ゼロの村上を見かねた父親が「どうせ大鍋でまとめて作るんだから一人分くらい食い扶持が増えたっていいだろ?」とアタシに断りもなく家に連れてきたのだ。
 後の横柄な態度が嘘のように恐縮する村上の様子を、アタシは鮮明に覚えている。今でも三〇代の公務員にしては髪を伸ばしているけど、当時の流行だったのか、そのときは今よりもっと長かった。前髪の顔への被さり具合が向坂と同じくらいで幾らか根暗に見えたせいか、第一印象はそれほど強いものではなかった。
 それが大きく変わったのは共に食卓を囲んだときだった。
 アタシが最初に村上に振る舞ったのは今日と同じ水炊きだった。正直、あまり満足のいく出来ではなかったのだけれど、村上はとても美味しそうに箸を進めていた。
 そんな中で立ち上る湯気に曇る眼鏡を外したときに見えた、ちょっと女性的なところすらある柔らかくて端整な横顔にアタシは目を奪われた。
(……うわぁ、こがん男の人がおるとやねぇ)
 最初はそれだけのことだと思った。
 けれど、村上が帰った後にお風呂でボーっとしているときやベッドに入って天井を見上げているとき、彼が見せた表情の一つ一つが脳裏に浮かんだ。彼の声を思い浮かべるだけで鼓動がとんでもない速さになった。
 いくらオクテのアタシでも、それが恋だと気づくのに時間はかからなかった。
 そう言えば一度、日頃のご飯のお礼と中学生になったお祝いにと村上がプレゼントを買ってきてくれたことがある。今ではまったく考えられないことだけど。
 ――今どきの女の子にプレゼントを贈ったことがないから、気に入ってもらえるかどうか自信ないんだけどね。
 そう言いながら、彼が差し出したのはボーダフォンの真っ赤な携帯電話だった。
 確かにアタシは父親に「携帯電話を買ってくれ」と言ったことがあった。別に友だちと電話やメールのやり取りがしたいとかいう理由ではなく、父親に「今夜は何が食べたいか?」と訊くのにいちいち公衆電話を捜すのが面倒だったからだが。子供が携帯電話を持つのにいい印象を持ってなかったらしい父はいつも適当な返事でアタシをごまかしていて、村上はそのやりとりを何度も目の当たりにしていた。
 嬉しくなかったわけではもちろんない。
 でも、今どきの女の子らしからぬアタシから見てもそれは違うような気がした。事実、父はかなり渋い顔をしていたし、アタシも二つの理由で困惑を隠せなかった。一つは少なくとも他所の人に買って貰うようなものではないこと。もう一つは憧れている男の人から携帯電話をプレゼントされるのがどんな意味を持つか、村上がまったく理解していないこと。彼にとっては、それはただアタシが欲しがっていたから買ってくれた以上のものではなかった。
 アタシと村上は一回り以上歳が離れているし、いくらそうは見えなかったといっても、村上が当時中学生になったばかりのアタシにその気になるはずなどない。恋が成就するとはアタシも思っていなかった。アタシはただ、家にご飯を食べに来る素敵な男の人との時間を楽しんでいられればそれでよかった――しかし。
 欲しかったのは事実なので携帯電話は受け取った。けれど、彼の目に映る自分は子供なのだという事実はアタシの心を重くした。
 その後も村上の来訪は断続的に続いた。次第に横柄な本性を見せ始めた彼との言い合いは本気でムカつく反面、友だちの少ないアタシにとってちょっとしたレクリエーションでもあった。想いが届くことはなくても、歳の離れた兄でもいいからこんな関係が続けばいいな、などとアタシは思い始めていた。
 けれど、何事にも潮時というものはある。アタシの恋は村上が結婚していたという事実と、その相手である奥さんとの対面によってあっさりと終焉を迎えた。
 それを受け入れるのは決して容易なことではなかった。けれど、村上への恋心はそこで終わったはずだ。それは去年、再会した彼が独身に戻っていても同じことだ。
 今、アタシが村上に対して抱いている気持ちはそれとは違うもののはずだった。

 気がつくと、アタシは半ば無意識に携帯電話を弄っていた。
 現在使っている携帯電話は去年買い換えたソフトバンクの810SHだ。いずれ、日本でも発売されるというiPhone発売まで持ち堪えるつもりだったのだけど、それまで使っていたのが不具合が多くて換えざるを得なかったのだ。
 村上が買ってくれた機体は父の事件のときまで使っていた。
 父の告発をめぐって仲違いをしたとき、アタシは村上を思い出させる品物の大半を処分してしまっている。一緒に写った写真を収めたアルバムもそうだし、数少ないけど買って貰った服やアクセサリもそうだ。
 けれど、携帯電話だけは理由が違っている。どういうわけだかアタシの番号がマスコミに知られてしまい、そっちにまで取材の電話が掛かるようになってしまったのだ。打てた対抗策は速攻で解約することだけだった。
 新しい携帯電話は祖父が経営する会社の名義のもので、料金を気にしなくてよくなったのはありがたかった。
 しかし、急な解約は一つだけ取り返しのつかない副作用を残した。メモリのバックアップをとっていなかったので、登録していた番号を全て失ってしまったのだ。
 その中には亮太の携帯電話の番号も含まれていた。アタシがどれだけ彼のことを懐かしんでも連絡をとれないのは、アタシが身の回りのゴタゴタから解放された頃に亮太が二度目の引越しをしていて住所が分からなくなったことと、それが理由だった。
 何度も折り畳みを繰り返しながら、もし、亮太と連絡が取れたら何を話すだろうと考えた。
 けれど、具体的なことは何も思い浮かばなかった。あれから三年近くが経とうとしている。アタシの身にいろんなことがあったように、彼の身にも三年分のいろんな出来事が起こっているはずだ。亮太にとってアタシとの付き合いなど遠い昔のことになっているかもしれない。逢って話がしたいと思っているのはアタシだけかもしれない。
 魂を吐き出すように深く息をついた。
 切ないことだけど過ぎ去った時間は取り戻せはしないし、起こったことは全て取り返しなどつかないのだ。アタシがどれだけ自分を責めても村上を恨んだ事実を消せないように。
「――ごめん、待たせたね」
 向坂がエレベータを降りてアタシのところに駆け寄ってきた。そんなに待ってもいなかったし、走るほど遠くもないのだけど、アタシの周りはアタシを待たせることに呵責を感じない男ばかりなので(その筆頭は村上)向坂の反応は新鮮だった。
「そがん待っとらんよ」
「ならいいけど。あれっ、電話掛かってきたの?」
「えっ?」
 向坂の視線はアタシの手元に注がれていた。
「……ううん、違う。そろそろ掛けてみたら繋がるかなーとか思うたっちゃけど、考えたらこっちから掛けてやる必要はなかかなと思って」
「まあ、そうだろうね。俺としては志村が潰れてないか、気になるけど」
「保護者じゃないとやけん、気にせんよ」
「そうだね。じゃ、行こうか」
「オッケー」
 小さなため息と共に携帯電話をポシェットに放り込んだ。誰に向かってのため息かは自分でもよく分からなかった。
 

2008.12.10 「Change the world」第26章
 
 途切れてしまった話を繕うように向坂が口にしたのは、「――そういえば、長浜の屋台って何処にあるんだ?」という、ムードもへったくれもない質問だった。
 唖然として彼の顔を見返したが、次の瞬間には思いっきり笑い出していた。向坂が呆けたように途方に暮れていたからだ。
「なん、その強引な話題の変え方!?」
「……仕方ないだろ。こういうとき、気の利いたことが言えるようだったら、祖母さんとだって仲直りできてたさ」
「そうかもしれんけど。でも、何で長浜なん?」
「思いついたのがそれだけだから。有名なんだろ?」
「まあね」
 とは言っても、行ってみようかとはちょっと言い難かった。
 親不孝通りから見たとき、北端に面した那の津通りの向こうはもう長浜だ。
 ところが、向坂が言っている長浜の屋台通りは福岡中央卸売市場、要するに長浜の魚市場の広大な敷地の西側にある。ここからだとタクシーを拾うほどではないけど歩くのはちょっと、という微妙な距離だ。しかも、周囲に屋台以外は何もないので食べたらすぐ戻ってこなくてはならない。屋台というのは基本的に長居しておしゃべりをするところではないからだ。
「ラーメン、食べたかと?」
「せっかくだからね。別に長浜じゃなくても、街中にある屋台でいいよ」
「じゃあ、そうしよっか」
 春吉橋の川沿いほど集中はしていないけど、その代わり、夜の天神界隈にはあちらこちらに屋台が出ている。どの店の周りでも照明というより投光機といったほうがピッタリくるライトが煌々と焚かれているので、屋台があるところは下手な街灯の下よりも明るい。それに豚骨スープの独特の匂いや屋台に集う客の喧騒が加わると博多の屋台のイメージの出来上がりだ。
 親不孝通りの南端、昭和通りに出たところの交差点にも幾つも暖簾が並んでいる。渡辺通りのだだっ広い舗道や国体道路の警固神社の前辺りも屋台が集まっているところだ。中にはテレビで紹介されるほど有名な屋台もあって、そういうところは週末ともなれば行列ができたりもする。
 どの店のラーメンも本人たちが声高に主張するほど違わないので――中には「?」マークが浮かぶ店もあるけど――アタシたちは昭和通りの目についた屋台の暖簾をくぐった。
 ちょうど客の切れ目だったのか、アタシたち以外には客はいなかった。なので、ど真ん中に座っても良かったのだけど、アタシはコの字型の屋台の席の短い辺のほうに腰を下ろした。そこだとちょうど二人だけで並んでしまえる。
 屋台には珍しい無愛想な大将はジロリと一瞥しただけで何も言わなかった。
「大将、アタシ、チャーシューメンと餃子、それとビール!!」
「オヤジ丸出し……」
「なんか言うた?」
「何も。えーっと、俺はラーメン。できたらネギ大盛りで」
 キリンラガーのビンとグラスを二つ、それと「はいよ」という短い返事を残して大将は裏から出て行った。屋台の店内にはショーケース(というほど大層なものではないけど)とおでんの鍋くらいしかなくて、コンロなどの調理器具はだいたい屋台の裏側に置いてあるものなのだ。さすがに水道はないので水はタンクに汲み置きだけど、電気はそれぞれの店の場所に専用の電源ボックスが設置されているというから驚く。
「でも、分からないな」
 向坂が言った。
「何が?」
「さっきの話さ。――あ、嫌ならやめるけど」
「別に良かよ」
 ビールをグラスに注いだ。向坂にも飲むかと目顔で訊いたら、小さく横に首を振られたので自分だけグラスに口をつけた。
「話の中に出てきた真奈ちゃんのお父さんを告発した同僚の刑事って、昼間の車を貸してくれた人とは違うのかい?」
「同じ。福岡県警博多警察署、刑事課勤務の村上恭吾巡査部長」
 あのZが父の元同僚の警察官から借りたものなのは車中の会話で説明していた。志村がタバコを吸いたがるのを諦めさせようとしてのことだったはずだ。
「真奈ちゃんが、お父さんの事件を正面から受け止めようとしてるのは分かる。でも、お父さんを庇ってくれなかったその人まで許せたってのいうのは、俺にはちょっと理解できないね。普通は恨んだりするもんじゃないのかな」
「恨んだよ。父さんの判決が出た日の夜、眼鏡が吹っ飛ぶくらい思いっきりビンタかましたし」
 アタシの口調があっさりしているからか、向坂は理解できないと言わんばかりに眉根を寄せた。
「それなのに、今は仲直りしてるのかい?」
「まあね。話すとちょっと長くなるとやけど――」
 ビールを一口、喉に流し込む。
「後で知ったことやけど、あいつに事件を告発させたとは、実は当の本人――アタシの父さんやったとよ。さっきも言うたけど、父さんは自分がしたことの償いはちゃんとするつもりやったらしかけんね。まあ、最初は周りにかける迷惑のこととかも考えたっちゃろうけど、最終的には父さんがあいつに頼んで、県警の筋書きとは違う形になったと」
「ちょっと待ってくれ。真奈ちゃん、さっきその人を恨んだって言ったよな?」
「言うたよ」
「その村上って刑事さんは、自分がお父さんに頼まれて告発したんだってことを、真奈ちゃんに言わなかったのか?」
「そうなんよねぇ……」
 アタシと村上は判決の夜を最後に顔を合わせていなかった。
 それが去年の夏に起こったある事件で再会することとなり――彼はそのきっかけとなった傷害事件の担当だった――拠所ない事情で協力することになった。アタシはその間、ずっと彼のことを意地悪くあげつらい続けたのだが、村上はそれについては何も言おうとしなかった。当然、事実が語られることもなかった。
 彼が告発の真相を語ってくれたのは事件が終結して、行き掛かり上の出来事で足の骨にヒビを入れたアタシを家まで送る車中でのことだった。
「どうしてその人は、真奈ちゃんに本当のことを言わなかったんだろう?」
 向坂は首を傾げた。
「隠さなきゃならないようなことじゃないだろう? わざわざ悪者になる必要だってなかっただろうに」
「アタシも後でそう思うた。最初から話してくれとったら、アタシもあいつのこと、あそこまで恨まんで済んだとにって」
「理由は教えてもらってないのかい?」
「残念ながら。一応、訊いたことは訊いたっちゃけどね」
 本当はそんな生易しいものではない。アタシはかつてないほど食い下がったのだ。けれど、結局はハッキリしたことは聞けずに終わった。
 村上恭吾というのはそういう男なのだ。自分のことを話すことなんか滅多にないし、アタシにもほとんど何も訊かない。そのくせに時々アタシの心を見透かしたようなことを言う。
 腹が立つのでアタシはしょっちゅう文句を言うのだけれど、相手は弁護士志望だったという明晰な頭脳に加えて一度口を開けば普段の寡黙さがウソのように流暢に屁理屈をこねるので、アタシはいつも言い負かされてしまう。ボクシングの元学生王者のくせに「一番得意な喧嘩は口喧嘩」とのたまうのだから本当に始末に終えない。
 しばらく、アタシは村上の愚痴を言い続けた。
 村上を知らない向坂にアタシが言っていることの意味が通るわけではない。それでも一度興が乗ってくると止まらなかった。普段、愚痴そのものを言わないアタシだけど、不思議なことに向坂には心置きなくぶつけることができた――まあ、彼には迷惑な話だろうけど。
「ホント、顔だけはよかけん、調子に乗っとうっちゃないかいなって思うとやけどさ」
「そうなんだ?」
「ヨンさまみたいな甘ーい感じでね。ま、仏頂面の微笑の貴公子とかあり得んけど」
 話の切れ目を待っていたようにラーメンと餃子が出てきた。アタシは紅しょうがを一掴み、丼に入れた。向坂も少し迷ってそれに倣う。スープの味が変わるとこれを嫌う向きも多いけど、アタシは場合によってはスープが赤くなるまで入れる。
 オンナとしてどうなんだという意見はあろうかと思うが、アタシはラーメンは上品に食べるものではないと思っているので、隣の視線など気にせずにがっつき始めた。
「ところでさ、これは俺の想像なんだけど」
 ある程度食べたところで、向坂が薄い笑みを浮かべた。
「ん?」
「真奈ちゃん、ひょっとして村上さんのこと、好きなんじゃないか?」
「――ッ!!」
 危うくすすったばかりのスープを吹き出すところだった。
「ちょ、ちょっと、何ば言い出すとねって!!」
「あれっ、違うのかい? さっきから聞いてると、憧れの人のことを話してるようにしか聞こえないんだけどな」
「……耳がおかしかっちゃないと?」
 箸を置いてビールを一息に飲み干す。そうでもしないと冷静さを保てそうになかった。
「……あいつはアタシにとってそういう対象やなかよ。それにアタシ、ついこの前までやけど彼氏おったし」
「ああ、そういう話だね」
 誰に聞いたと問い返す必要はない。
「志村って口軽かねぇ……」
「そう言わないでやってくれ。俺が変なことを口走らないように、予備知識として知っとけって意味だったんだから」
「それでもさぁ」
 確かにアタシは口止めしなかったし、逆の立場なら――例えばアタシと由真、志村の組み合わせでアタシが失恋話を聞かされていたら、やっぱり由真にそのことをしゃべっただろう。予備知識云々ではなく純粋に興味本位で。
 しかし、この気恥ずかしさをどうすればいいのか。
 仕方がないので、一人でビールを空けながら今度は志村の文句を言い続けた。向坂は苦笑いを浮かべながら黙って聞いてくれていた。
 

2008.12.10 「Change the world」第25章
 
 あのときのことを思い出すと、今でも手足から力が抜けていくような感覚に襲われる。
 アタシが高校に入ってすぐのゴールデンウィーク。県警の薬物対策課の刑事だった父がかねてから内偵を続けていた麻薬密売グループの摘発のために数日泊り込むことになり、アタシは今住んでいる祖父母の家に預けられていた。
 衝撃的な知らせが飛び込んできたのは、アタシが風呂からあがってすぐの午後九時頃だった。タオルで髪を拭いながら下着姿で家の中をウロウロしていたら突然来客があって、慌てて手近な部屋に駆け込んだので間違いない。
 県警の警務課長と名乗った来客は、沈痛な表情で「佐伯警部補が捜査中に被疑者の少年を殴って死亡させた」と告げた。
 その時点では詳しいことは分からなかったが、逃亡する被疑者を父が殴り倒し、その拍子に被疑者が路肩の縁石で頭を強く打ったのが直接の死因とのことだった。しかし、それだけならまだ事故で済まされたかもしれない。ところが激昂した父はその後も何度も被疑者の少年を殴り続けていて、その場で駆けつけた警官――現場は親不孝通りの舞鶴交番から目と鼻の先だった――に現行犯逮捕されていた。
 殺人ではなく傷害致死になると思うと警務課長は言ったが、その違いは隣の部屋で聞き耳を立てていたアタシにはよく分からなかった。
 正直に言うと、アタシはそれを何かの悪い冗談だと思っていた。降りかかる火の粉を払うことに躊躇するような人間ではなかったけど、父は無意味な暴力はぜったいに振るわなかった。その父が我を失って人を殴り殺したなど、アタシに信じられるはずがなかった。
 県警は当初、それでも”捜査中の事故”で押し切るつもりだったという。もちろん、それは父を庇うためではなく上層部の保身のためだったが。
 それが一転して”現場の警官による暴走”という筋書きに代わってしまったのは、父の同僚だった村上恭吾が県警上層部の意向に反して「裁判では事実を証言する」と言い出したからだ。県警の筋書きを押し通すためには村上の証言は不可欠で、それが逆になった場合、県警は捜査員による傷害致死という前代未聞のスキャンダルに加えてお得意の隠蔽工作を企てたという余計なバッシングまで蒙ってしまう。そんな選択はあり得なかった。
 結果として父は傷害致死で起訴され、アタシの生活はまるで足元の地面が突然消え失せたように崩れていった。
 父と暮らしていた東区のマンション前にマスコミが殺到したのは、祖父母の家に身を寄せることで何とか避けることができた。祖父は福岡市の市議を勤めていた関係で近所の交番に顔が利いたし、そもそも家には万全なセキュリティが敷いてあるので外から干渉されるようなことはない。問題は出入りするときだったけど、典雅な博多人形のような面立ちの祖母が般若の形相で一喝して以来、マスコミがアタシに付きまとうようなことはなくなった。とりあえず、アタシの日常は事件から数日で元の静かなものに戻った。
 それでも、学校ではそういうわけにはいかなかった。
 実のところ、アタシはようやく馴染み始めたばかりのクラスメイトから一斉に無視されたり、聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせられることには覚悟のようなものができていた。アタシが悪いんじゃないという思いは確かにあったけど、それ以上にアタシがそれに負けたら父はともかく祖父母が悲しむと思ったからだ。
 しかし、事件から一週間後に登校したアタシの身にそんなことは起こらなかった。アタシは教室に入ることすらできなかったからだ。事情を察しているような顔をした担任の教師は、まるで容疑者を裏口から入らせる警官のような手つきでアタシを誰もいない進路指導室に連れて行った。
 ――悪いことは言わないから、転校しなさい。
 担任と、その時に初めて見た学年主任の女の教師は、いかにもアタシを心配しているような口ぶりでそう言った。
 ――冗談やない。なんでアタシが!?
 アタシはテーブルを叩いて立ち上がった。父がしでかしたことが理由で白眼視されるのは仕方ないと思っていたし、苛められても耐えようと覚悟もしていた。
 けれど、そこにいることすら許されないとは思っていなかった。
 剣呑な睨み合いはどれくらい続いただろうか。
 ――分かりました。でも、一週間だけ授業を受けさせてください。
 二人の態度から反論しても無駄なことを悟って、アタシは押し殺した声で言った。
 もはや意地以外の何者でもなかった。二人はアタシの意図を読みあぐねていたが「それさえさせてくれたら大人しく転校する」と申し出たら、渋々ではあったが了承した。
 それから一週間、アタシは生涯で初というほど強烈な苛めを味わった。わざとらしいシカト、聞こえよがしの陰口、面と向かっての揶揄や誹謗中傷。直接手を出されなかったのは、同じ中学から入った同級生がアタシの中学時代の武勇伝を流布していたからだろう。仕掛けてくれば相手をしてやってもいいと思っていたが、そんな度胸のある奴は一人もいなかった。
 そうしてアタシはせっかく進んだ高校を辞めて、祖母の母校である今の私立女子高に転入した。転入試験は白紙答案だったのにすんなり入学できたのは、祖母がOG会の重鎮であることと無関係ではあるまい。
 父がしでかしたことはそこでも知らない者はいなかった。ただ、アタシは祖父の意向で父の籍から祖父の籍に移って佐伯姓から今の榊原姓に変わっていたし、聞かれて否定したことはないけど自分から言いふらすような真似はしなかったから、アタシがその暴力警官の娘だということを知らない同級生は結構いた。
 祖母がどうしてもというので転入はしたが、アタシは最初から学校に行くつもりはなかった。同じ目に――あるいは女子高だからもっと陰湿な目に――遭わされると分かっていて行くほどアタシは物好きではなかったからだ。
 代わりにアタシは夜になると天神や大名、あるいは中洲といった街を出歩くようになった。
 行く当てはまったくなかったし、誰か知り合いがいたわけでもない。そんなものを作ろうという気はさらさらなかった。
 アタシはただ、誰もアタシを知らない、誰もアタシに干渉することのないところにいたかっただけだ。どうにも抑えられないどす黒い衝動に駆られて売られた喧嘩を買い、あるいは喧嘩を吹っかけては警察のご厄介になるのを繰り返したりはしたが。
 
 アタシたちは親不孝通りを北に戻り、父が事件を起こした長浜公園前の舗道に立っていた。
 盛り場だった頃はこの公園も人で溢れていた。特に深夜になると周囲の店から吐き出されてきた若い連中がたむろしていて、父と母に挟まれたアタシはそれを恐がりながらも、そこに渦巻いているエネルギーに憧憬に似た想いを抱いたものだ。
 しかし、今は公園に人の姿はない。ここに人が集まるのは何かイベントがあるときか、公園の真ん前にあるライブハウスにちょっとした大物がやってくるときくらいだ。
 父の事件後、ここを訪れるのにはかなり時間がかかった。父が人を殺めたという事実に押し潰されるんじゃないかと怖くて仕方なかったのだ。
 けれど、実際に来てみればそうでもなかった。それはおそらく、アタシがどこまで行っても加害者側の人間だからだろう。あるいは、そこで父がしたことに実感を抱けなかったからだ。思い出すので好んで通ろうとは思わないが、避けずにいられないというほどのことはないのが現実だ。人は自分が蒙った痛みは忘れないが、自分が与えた痛みはすぐに忘れてしまう――去年の夏、ある事件で知り合った男が言っていた言葉だ。
「……お父さんはその後、どうなったんだい?」
 向坂が言った。押し付けがましい沈痛な声を聞かされるのかと思っていたら、相変わらずの淡々とした物言いだった。
「夏が終わった頃に懲役五年の実刑判決が出たよ。起訴事実を争ったりせんかったけん、結審するとが早かったとよね。今は北陸の刑務所に入っとる」
「お母さんは?」
「小学六年のときに病気で死んだよ。若かときの不摂生が祟ったわけやなかろうけど、心臓の病気を患うてね」
 母はアタシが小学生になってすぐに心臓の血管の狭窄で病院に担ぎ込まれた。それまで風邪くらいしか病気したことがない健康そのものの人だったので――これもアタシと同じだ――周囲は相当に慌てたらしい。
 母親の病気は手術が難しくて治療は内科的なものが主だった。そのため、母は頻繁に入退院を繰り返すようになり、アタシは必然的に家事に手を染めるようになった。家庭科で5以外とったことがないという家事万能の素地はその頃に作られたものだ。
 母は正月に一時帰宅しているときに発作を起こし、救急車で病院に搬送されたがそのまま息を引き取った。
「あのときさ、アタシ、何でか知らんけど人前じゃ泣かんかったとよね」
「お母さんが亡くなったとき?」
「そう。今でもよう分からんけど、ぜったいに泣いたらいかんって思って」
「へえ。でも、一人のときは泣いたんだろ?」
「そりゃそうよ。毎晩、枕のカバーがぐっしょり濡れるくらい。泣いて泣いて、泣き疲れてようやく眠りよった。でもさ――」
「でも?」
「人間ってさ、どんだけ悲しかことがあったってやっぱりお腹が空くとよね。葬式から一週間くらい経った頃かな。朝起きたらお腹がもの凄か音立ててさ」
 アタシは思い出し笑いを浮かべていた。
「悲しかやら情けなかやらで、もう、わんわん泣き出したとよ。そしたら、お祖母ちゃんがアタシをギュって抱きしめて「それでいいとよ」って言うてくれたとよね。「それは真奈が生きとる証拠やけん、何も悪かことなかと。それをお母さんが教えてくれようとよ」って。そしたらさ、不思議なことにそれまで張り詰めとったもんがなくなって。母さんが死んだことは確かに悲しかったけど、それを事実として受け入れられたとよね」
「そうか……」
 向坂はアタシの顔を不思議そうに覗き込んだ。
「なん?」
「いや、真奈ちゃんが亡くなったお母さんのことを昔話にするのは分かった。でも、お父さんは違うんじゃないか? 懲役五年ってことは、あと二年半すれば出てこられるじゃないか」
「そうやけどね……」
 同じことは何度か訊かれたことがある。一番身近なところでは由真からも。けれど、それについてちゃんとした答えを返したことはなかった。言っても理解してもらえるかどうか、あまり自信が持てないからだ。
 けれど、この男になら言ってもいいような気がした。
「こがん言うたらちょっと変なんやけど、アタシが父さんのことをおらん人みたいに言うとは、あの人がおらんでもアタシはちゃんと生きとるって言えんかったら、おちおち年頃の娘を残して刑務所とか入っとかれんやろうなーって思うけんなんよね」
 向坂は黙って肯いた。アタシは足元の小石を蹴っ飛ばした。
「あの人は残されるアタシのこととか考えんであがんことしたけど、今はやっぱり後悔しとうと思うとよね。それに、死なせた相手はロクでもない麻薬の密売人やったけど、それでも自分が冒した罪はちゃんと償おうとしよるとやろうけんさ。やけん、アタシがその足を引っ張ったらいかんと思うと」
「……強いんだな、真奈ちゃんは」
「アタシは強うなんかないよ」
 唐突にデジャヴのような感覚に襲われた。どこかで同じようなことを言われたか、あるいは言ったような気がする。あれは昨日の夜の居酒屋での会話じゃなかっただろうか。
 いや、違う。ついさっきの向坂の言葉だ。

 ――俺は優しくなんかない。

 ――アタシは強くなんかない。

 子供であれば与えられて当然の愛情を誰からも与えられなかったのに、どれだけ世の中を儚んで歪んでいてもおかしくなかったのに、目の前のこの男は親族に見放された大叔父に共感することができる。自分を疎ましがる祖母に歩み寄ろうとすることができる。自分のために変わってくれない身勝手な父母へ、恨みをぶつけずに心の中で処理してしまうことができる。それが優しさでなくて何なのだろう。
 一方、アタシはどうだ。もし、向坂が言うようにアタシに強さなんてものがあるとしたら、それは父や祖父母に心配をかけたくないから全てを過去に押し流したことや、元彼の夢と自分の寂しさを天秤にかけて別れを選んだ気持ちのことかもしれない。
 笑い出しそうになった。
 なんて似ているんだろう。二人とも自分の心を正面から受け入れることができないから、自分のことを否定してみせる。自分が弱いことを知っているから、辛いことに耐えるために自分の心を氷の塊に変えてしまうことができる。
 ようやく、向坂に感じたシンパシーの正体を理解することができた。彼はアタシの同類なのだ。
 

2008.12.10 「Change the world」第24章
 
 向坂がどう思っていたのかは知らないが、天神西通りの北端にある西鉄グランドホテルから親不孝通りは本当に目と鼻の先だ。明治通りと併走する昭和通りまでの一〇〇メートルにも満たない短いブロックを越えて信号を渡った先は、もう親不孝通りだからだ。つまり、西通りと親不孝通りは同じ一本道が途中で名前が変わっているということになる。
「へえ……」
 向坂はポカンと口を開けて感嘆のため息をついていた。ただ、それはどちらかと言えば予想外なものを見たときのような感じに見えた。理由は何となく分かる。
「寂れとうやろ?」
「あ、いや。なんて言えばいいのか分からないけど、想像とはだいぶ違うな」
「ここが盛り場やったんは、一〇年ちょっと前くらいの話やけんね」
 そもそも、親不孝通りの成り立ちはアタシたちが生まれるずっと以前、一九七〇年代に遡る。
 アタシたちがいる南端とはちょうど反対、那の津通り側の北端に水城学園、九州英数学舘という当時地元では大手だった予備校があって、そこに通う予備校生の通学路だったのが名前の由縁だ。
 当初は予備校生向けの喫茶店とかゲームセンターなどが立ち並んでいたのだけど、客層が徐々に変化していって、最盛期には「大人の中洲、若者の親不孝」と呼ばれる夜の街へと変貌していった。世間一般に知られているイメージはだいたいこの頃のものだ。
 一方、若者の集まる繁華街として賑わうのと比例するように犯罪や揉め事も増加した。当時、この地域を担当する舞鶴交番は中洲交番と並んで忙しい交番だったそうだ。
 そうしたことから”親不孝通り”という名称のイメージそのものが悪く、それが犯罪の誘発の一因となっているという声が上がった。福岡市や通り沿いの商店はその対抗手段として、本来の”天神万町通り”の名称を浸透させようと”親不孝通り”と書かれた看板を撤去したり、当時放送中のこの通りで収録されていたテレビ番組のタイトルまで変えさせたりした。
 しかし、結果はと言えば全く浸透しなかったし、全国的な知名度を放棄したことは商業的には逆にダメージになった。なので、何年か前に”おやふこう”の発音を残した”親富孝通り”と改称されたけど、アタシの知る限り、浸透しているとはとても言えない。アタシも漢字で書けといわれたら普通に”親不孝”と書いてしまう。
 ちなみに衰退の主な原因はそれではなく、名前の由来である二つの予備校が少子化と相次いで福岡に進出した大手全国区予備校(河合塾、代々木ゼミナール、駿台予備校など)の影響で経営が立ち行かなくなって閉校してしまったからだ。おまけに若者の盛り場が大名や今泉、警固などの南天神に移ったおかげで一時期はちょっとしたゴーストタウン並みに寂れてしまったけど、おかげでテナントの賃料が安くなり、今は居酒屋やバー、その他、小さいながらも店を持ちたい人が集まっているのだという。
「ここは?」
 向坂は通りの中ほどにある細い路地の前で足を止めた。
「ん?」
「この看板。マリアストリートって書いてあるけど」
 覗き込んだ路地の奥には真新しいマンションしか建っていない。怪訝そうな顔をしているのはそのせいだろう。
「ここに昔、マリアクラブっていうディスコがあったんよ。西日本最大とか言うて、バブルの頃はものすごく賑わっとったんて。TMネットワークってバンド知っとう?」
「名前だけは」
「あの人たちの歌にもそのディスコをモチーフにした<マリアクラブ>っていうのがあるんよ。なんでか知らんけど、あの人たちって福岡に縁があるとよね。<ファンタスティック・ヴィジョン>が今でもTNCの天気予報で使われよるし」
「へえ。でも、昔のことなのにずいぶん詳しいんだな」
「ウチの父親と母親が出会ったんがここなんよ」
「ここ?」
「二人とも予備校の生徒やったと。父親のほうは水城の現役コースで、母親は英数学館で二浪しとったらしかけど。やけん、よう昔話で聞かされよったとよ」
「お母さんのほうが年上なんだ?」
「一歳だけね。学年は二つ違うけど。まあ、本人は大学行く気とかなかったけん、適当に授業サボってパチンコ行きよったらしか。英数学館は別名”パチプロ養成所”って有名やったけんね」
「へえ……」
「知り合うたとは二人とも一〇代の終わり――やけん、今のアタシと同じくらいのときやったとやけど、くっついたり離れたり繰り返しよったけん、結婚したとはずいぶん後の話でさ。アタシ、けっこう歳がいってからの子供なんよね」
「お母さんってどんな人だったんだい?」
「アタシが言うとも何やけど、かなりの跳ねっ返りやったらしかね。バイクは乗り回すわ、タバコはぷかぷか吹かすわ。喧嘩もそこら辺の男が束になっても敵わんくらい強かったって言いよったし、お酒は底なしやったらしかし」
「すごい人だな」
 向坂の目が一瞬、悪戯っぽく光った。
「……今、アタシにそっくりとか思ったろ?」
「思ってないよ」
 けれど、声は完全に笑っていた。
 ふん、どうせアタシは母親に生き写しだと言われてるよ。似ていないのは母親が極度の音痴だったこととアタシがタバコを吸わないこと、母親が剣道でアタシが空手なことくらいだ。
 あと、残念ながらアタシは亡き母親の美貌に遠く及ばない。
「真奈ちゃんもよく来てたのかい?」
「まあね。どう考えても子供連れてくるところやなかったと思うけど、よう家族三人で来よった。昔からある学生向けのカレー屋とかきったない居酒屋とか。そうそう、ここの通りの入口に焼鳥屋があったろ?」
「戦国焼鳥なんとかってやつ?」
「そう。あそこすっごい安かとよ。二人ともお金なかったけん、昔から行きよったらしか。アタシもときどき連れていかれよったけど店の中がものすごい煙とうてさ。アタシ、思いっきり咳き込みながら焼鳥食べよったよ」
「へえ、楽しそうだな」
 向坂は穏やかな微笑を浮かべている。
 ――しまった。
 口の中に苦いものが広がる。よりによって、この男の前で幸せだった昔の話をするなんて。
「……ごめん」
「何で謝るんだい?」
 予想に反して向坂の声は温かかった。
「俺、人の幸せな話を僻むような男に見えるかい?」
「そがんことなかけど――」
 言葉が出てこない。向坂も同じように押し黙った。我慢比べのような沈黙。
 それを破ったのは向坂だった。
「羨ましいとは正直思うよ。でも、それを言ったところで過去を変えられるわけじゃない。誰かの人生に取って代われるわけでもないし、誰かが俺の代わりに俺の人生を生きてくれるわけでもない。だったら、他人の人生を羨んだって仕方ないだろ」
「そうやろうけど……」
「まあ、真奈ちゃんの言いたいことは分かるよ。俺みたいな育ち方をしたら、普通はもっとひねくれたクソガキになってるもんな。まあ、ひねくれてるのは事実だけど。――たぶん、感受性ってやつをどこかに置き忘れてきたんだろう」
「そがんことなかよ。向坂くんが優しいとやない?」
「……俺は優しくなんかないよ」
 
 その瞬間、体中の毛穴が開くような感覚に捉われた。向坂の何かを諦めたような遠い眼差しに見覚えがあったからだ。
 どこで見たかはすぐに思い出せた。かつて、鏡に映る自分の顔の中でアタシは何度もそれを目の当たりにしていた。
 
「……ふうん。まあ、自分で言うならそうかもしれんね。――さて、そろそろ戻ろっか」
「えっ? まだ半分くらいしか来てないだろ」
「ここから先は何もなかよ。交番とか見たってしょうがなかろ?」
 そう言って、強引に歩く方向を変えさせた。理由は簡単だ。この先にはできればあまり行きたくないところがある。高校一年のゴールデンウィークにアタシの父親が事件を起こした現場が。
「――分かった。戻ろうか」
 向坂はジッと見つめていたアタシの顔から視線を逸らした。アタシたちは二人で並んで来た道を引き返した。
 さっきまでの饒舌な会話が嘘だったように二人とも押し黙っていた。向坂が言葉を探している気配はあったが、なかなか見つけられないでいるようでもあった。
 それでも、通りの南端にたどり着いたところで彼は口を開いた。
「言いたくないなら言わなくてもいいけど、一つ、訊かせてほしいんだ」
「なん?」
「どうして真奈ちゃんはご両親のことを話すとき、過去形で話すんだ?」
 

2008.12.10 「Change the world」第23章
 
 博多川沿いを海のほうに向かって歩くと、すぐに明治通りに出る。
 大雑把に言って、天神と中洲界隈は渡辺通りとその西側を併走する天神西通り、ちょっと離れているが博多の大博通りが南北の縦軸、博多湾側から那の津通り、昭和通り、明治通り、国体道路が東西の横軸のハシゴのような形になっている。もちろん、それ以外の道もいろいろあるし、国体道路のように部分的に違う名前になっている通りもあるのでややこしいことはややこしいが、基本的にはそれさえ知っておけばこの辺りで道に迷うことはない。
 何故、アタシがそんなことを力説するかと言うと、向坂と志村が迷子になったのはキャナルの近所ではなく、西鉄グランドホテルからキャナルまでの間でのことだったと聞かされたからだ。
「ちょっと待ってって。この道、向坂くんたちが泊まっとうホテルの真ん前ば通っとうとやけど。やけん、ホテルからまっすぐ歩いてきて川端商店街のアーケード抜けたら、アタシが教えたキャナル行きの陸橋のところに出るとよ?」
「いや、そうなんだろうけどさ」
「地図は? 志村が持っとる本には載っとらんかった?」
「いや……一応」
 もともとハキハキした男ではなさそうだけど、向坂の歯切れは一段と悪くなっている。
 中洲大洋劇場前のバス停からちょうどやってきた路線バスに乗った。親不孝通りはそれほど遠くないしブーツにはヒールがないので歩くのは苦にならないけど、三月の夜はワンピースとカーディガンで長い時間歩くのにはやや肌寒かったからだ。それに市内循環バスは区間内ならどこまで乗っても一〇〇円だ。向坂が乗るときに戸惑ったような顔をしていたのは、関東では後ろのドアは降車用だかららしい。
「向坂くんって、ひょっとして方向音痴なん?」
 後ろのほうの二人掛けの席に向かいながら訊いた。
「そんなことはないさ。知らない街なんだから、迷うのは仕方ないだろ」
「そのために地図ってもんがあるとやけどね。――あ、分かった。向坂くんって地図が読みきらんっちゃないと? ほら、昨日の博多駅でも構内の案内図読みきらんかったけん、博多口と筑紫口間違えたとやし」
 博多駅が方向を見失いやすい造りなのは事実だが、駅構内図は現在位置と行きたいところへの方向が分かるように描いてある。それにあのときは指摘しなかったが、それぞれの出口の真上にはちゃんと”博多口””筑紫口”と表示もしてあるのだ。
 その間違いこそがアタシと二人を引き合わせたのだから、あんまり文句を言ってはいけないのだろうが。
「……しょうがないな、認めるよ。実はあんまり得意じゃない」
 向坂はちょっと乱暴に腰を下ろすと、いかにも渋々というふうに鼻を鳴らした。
「でも、だいたい男の人って地図は読めるもんやないとかな。ほら、そういうタイトルの本があったやん」
「<話を聞かない男、地図が読めない女>だろ。あれは男女の基本的衝動の違いの話で、男なら地図が読めなきゃならないって話じゃないよ」
「読んだと?」
「高校の図書館にあったからね。――あ、この風景は見たことあるな」
 バスが走り出してすぐ、那珂川に架かる橋の上で向坂が言った。
 中洲の川沿いに建ち並ぶビルとその屋上に掲げられた巨大な広告のネオン。対岸の西中洲にも同じように多くのネオン看板が灯されていて、その色とりどりの光が那珂川の真っ暗な川面をパレットのようにして混ざり合いながら映り込んでいる。
 福岡――というか、中洲がテレビで取り上げられるとき、ほとんどの場合、ファーストカットにはこの西大橋の上から撮影したこの光景が使われる。ナレーションはだいたい<九州最大の歓楽街、中洲――>だ。
 バスの窓からでは見えづらいが、西大橋の一本南側に架かる橋を指差した。
「あれが福博であい橋。ホークスが優勝すると、あそこからファンがバカ騒ぎしながら川にダイブするんよ」
「道頓堀みたいなもの?」
「あそこより水はきれいやけどね。ただ、この辺ってもう河口やけん、満潮のときはそれなりの水位になるけど、そうやないときはけっこう浅いけん危ないとよね」
「それでも飛ぶ奴は飛ぶんだろ?」
「……そうなんよね」
「誰か知り合いが?」
「ウチの父親。わざわざダイブしに行こうとしたけん、力尽くで引き止めたけど。もう、なんで男ってあがんバカなんやろ」
「俺も男だけど?」
 少しイヤミな笑顔。この男は普通に笑うよりこういうクセのある笑みが似合う。それが彼の生い立ちに関わるものかどうかは分からない。
「向坂くんはどこかのチームのファン?」
 向坂は首を横に振った。
「いや。赤の他人に感情移入する感覚は、正直あまり理解できないな」
「まったく同感」
 アタシたちは顔を見合わせて忍び笑いを浮かべた。
 バスはそのままアクロス福岡の前を通り過ぎた。明治通りは夕方にはかなりのラッシュに見舞われる。ただ、さすがにこの時間になると流れはスムーズで、強引な運転で知られる西鉄バスもゆったりと余裕を持って走っていた。
 その間、目についた建物やそれにまつわる逸話で思いついたものを話した。区間にして大した距離を走ったわけではない。アクロスの前と福ビルの前、渡辺通りを越えて新天町入口、その次の西鉄グランドホテルの手前のバス停までだからだ。
 それでも話すことは結構あった。
 アクロス福岡が明治通りの反対側から見ると建物そのものが大きな階段のような形をしていて、おまけに全て屋上緑化されているのでまるで街中の山のように見えること。それを由真が「ラピュタみたい」と喩えるのだけど、アタシはジブリ作品は<紅の豚>しかまともに見てないので比喩として正しいのか、今ひとつ分からないこと。
 西鉄の本社が入っている福ビル(正式名称は福岡ビル)がこの界隈では一番古いビルで、西方沖地震の時にこのビルのガラスだけが大量に割れて舗道に降り注いだこと。そのショッキングな映像ばかりニュースで流すものだから、テレビだけ見ていると福岡は壊滅したんじゃないかと思えたこと。
 天神のど真ん中の天神交差点に面した旧西鉄福岡駅ビルが同じ地震の影響で耐震補強工事に多額の費用がかかるという理由で未だに空き家なこと。その向かいにある天神コアが福岡のギャル・ファッションの聖地と呼ばれていて由真が目の仇にしていること。
 新天町商店街が福岡で川端商店街と並んで歴史のあるアーケードであること。そこは祖母の行きつけでアタシもよくお供で訪れること。おかげで一時期、アタシのワードローブがやたらババくさい色合いの服ばかりになっていたこと。でも、そんな祖母の影響でアタシが茶道を嗜んでいること。着物の着付けも自分でできること。最後の二つについて向坂は意外極まりないという表情を隠そうともしなかった。失礼な奴だ。
「ほらね、目の前やろ?」
 バスを降りて、彼らが泊まっているホテルを指差した。
「分かった、もういいよ。それで、親不孝通りはどっち?」
「道、渡ったらすぐ」
 そう言った瞬間に横断歩道の信号が点滅し始めた。走れば間に合いそうだ。
「ほら、急ぐよ!!」
 そう言って、向坂の腕に軽く触れた――つもりだった。
 アタシの手は向坂の二の腕をしっかりとつかんでいた。まるで、ちょっとやんちゃな彼女がおとなしい彼氏を急かすような感じで。
「あ……、ごめん」
「別に謝るほどのことじゃないさ。ほら、急ごう」
 向坂は何事もなかったようにそう言うと、逆にアタシを急かして走り出した。アタシもそれにあわせるように歩調を速めた。
 それ以上に、アタシの鼓動はとんでもない速さになっていた。
 

2008.12.10 「Change the world」第22章
 
「……へえ、そうやったん」
 二杯目の水割りを静かに口に運んだ。
 向坂は奔放な母親が何日も帰ってこなかったり、帰ってきたかと思えばアルコールの匂いをプンプンさせている環境で育ったことを話してくれた。自分が出かけている間、向坂が飢え死にしたりしないようにお金を置いたり食べ物を用意していったというからネグレクト(育児放棄)とは言い切れないが、何が違うのかといわれればよく分からない。
「小学生のときにダブったのも、母親がトラブルを起こしてはすぐに住むところを変えるせいで、学校に通えなくなったからなんだよ」
「転校は?」
「住民票そのものが動いてないんだ。そんなこと、できるはずないだろ」
「そうなんやろうけど……」
「まあ、そのうちに知り合いが手を回してくれて、何とか一年遅れくらいで学校に通えるようにはなったんだけどね」
「ふうん。――でも、そんな子供やったとにすごかね」
 向坂は意外そうにアタシを見た。
「何が?」
「だって、向坂くんって成績良かっちゃろ? 大学にも推薦で入れたくらいやし」
「大したことはないよ。たまたま運が良かっただけさ。それに――」
 向坂はそこで言いよどんだ。
「それに?」
「学校にはまともに通えなかったけど、勉強を教えてくれた人はいるんだ。読み書きも満足にできなかった俺に字を教えてくれたし、本やいろんな事柄に興味を持つことを教えてくれた。後になって勉強するのが苦にならなかったのは、何かを学ぶのは本当はとっても楽しいことなんだって、そいつが教えてくれてたからかもしれない」
 不思議な声音だった。懐かしいものを語るような温かさがあるのは当然に思えたが、同時につらいことを語る苦さが混じっているように聞こえたからだ。だからだろう、アタシはその人が今どうしているのか、訊くことができなかった。
「大切な人なんやね」
「……たぶんね」
 向坂は半分ほどになっていたグラスを一息に空けた。
「不思議だな」
「何が?」
「こんなこと、今まで誰にも話したことがなかったんだ。親や祖母さんはもちろんだけど、世話になったことのある誰にも。もちろん、志村にだって話したことがない」
「そうなん?」
「ああ。どうしてだろう。真奈ちゃんって、他人からいろいろ話し易いって言われるかい?」
「逆のことなら、数えきれんくらい言われたことあるけど。アタシばっかり言いよるけど、向坂くんこそ酔っとるっちゃないと?」
 向坂は目を瞬かせた。けれど、何かを想うように目を伏せると静かに息をついた。
「……そうかもしれないな」
 二杯目の水割りを受け取ると、向坂はとりとめもなく自分や家族のことを話し始めた。他人のアタシに言うようなことではない母親の不品行や、詐欺師紛いの仕事をする父親の堕落っぷりが出てきたときはさすがに止めようとしたけど、向坂は「祖母さんと親父の間のことを知られているのに、これ以上隠し立てしても意味ないだろ?」と気にも留めなかった。
 おかげで三〇分後には、アタシは向坂の幼少期から今に至るまでの履歴書が書ける程度には彼の経歴に詳しくなっていた。もちろん、安斎啓子の手紙の後書きで大まかなことを知っているからではあったが。
 中でも向坂が中学に上がってすぐ、母親の恋人の妻からとばっちりのようなシチュエーションで脇腹をナイフで刺され、それが祖母の家に引き取られることになった理由という話は衝撃的だった。出来事そのものよりショックだったのは、それを何でもなかったことのように淡々と語る向坂の表情のほうだったが。
 他にも、向坂は志村との出会ったときのことを話してくれた。
 それによると、今よりもずっと小さかった志村がリンチに遭っている現場にたまたま向坂が通りかかったのが馴れ初めらしい。さっきの刺された話や留年している事実が曲解されて”ナイフで傷害事件を起こした少年院帰りの危ない人”だと誤解されていたのが逆に幸いして加害者の不良少年たちが逃げてしまい、結果として彼が志村を助けた形になったのだそうだ。同じように曲解されたレッテルに脅える志村に向坂がかけた「刺してない、刺されたけど」という台詞には、申し訳ないけど吹き出さずにはいられなかった。
 もっとも、傲岸な父親とそれに盲目的に従順な母親に反発していて今よりもっと拗ねたガキだった志村は、最初の頃は向坂を全く受け入れようとしなかったという。
「らしかねぇ、あの男。それであがん、ひねくれた目しとるったいね」
「まあね。でも、あれでも――って言っちゃなんだけど、いい奴なんだ。俺の友だちには勿体ないくらいにね」
「ふうん……」
 話はそれからもしばらく続いた。
 けれど、それらの話にはさっきの”大切な人”は欠片ほども出てこなかったし、向坂は彼の祖母が手紙で触れていた去年の秋の大怪我とその原因についても触れなかった。訊こうにも手紙については<アラジン>や<ア・ホール・ニュー・ワールド>に関する記述を拾い読みしたような話にしてしまっているので、迂闊なことは言えない。
 それでも、彼がまとっている薄いヴェールのような影の正体は感じられた。
「……なんて言うか、人生、波乱万丈って感じやね」
 向坂はちょっと皮肉な笑みを浮かべた。
「そうでもないさ。テレビのニュースを見ればいい。俺よりひどい環境で育ってる子供が幾らでもいるよ」
「それはそうやろうけど。でも、他人から見れば他と違わんかっても、その人にとってはそれが全てなわけやん? それでグレてないとやけん、やっぱりすごかと思う」
「お褒めにあずかり光栄だね。――ところで、あれはあんなとこに置いといて大丈夫なのかい?」
 向坂は天井を指差した。地下へ降りる階段の脇に隠してきたGPS発信器のことだろう。
「たぶんね。ここに持ち込むわけにはいかんけん、外に置いとるとやけど」
「……?」
「GPSは衛星の電波が届かん地下じゃ使えんとよ。あそこやったら位置も測定されるし、由真のところにもメールが行きよるはず」
「へえ。だったら、置きっぱなしにしておけば、俺たちは何処へ行ってもここにいることになるわけか」
「そういうこと。――なん、これから行きたか場所とかあると?」
「いや、そういうことじゃないけどね。だいたい、福岡の何処に何があるかも知らないし」
「ガイドブックとか見らんかったと?」
「志村が持ってた雑誌は暇つぶしに読んだけど、俺は観光に来たわけじゃないから。福岡に関して知ってることって言えば、中洲がこっちで一番大きな歓楽街だってことと、あとはとんこつラーメンと辛子明太子の本場ってことくらいかな」
「うっわ、ステレオタイプ」
「しょうがないだろ。あ、でも、こっちに親不孝通りって通りがあるのは知ってる」
「……なんで?」
「そういうタイトルの小説を読んだことがあるんだ。ぜんぜん面白くなかったけど」
「へぇ」
 そんなものがあるとは知らなかった。まあ、アタシは文学部を受験するのがおこがましいほど本を読まない人間ではあるが。
「行ってみるね?」
「そうだな。せっかくだし」
 そう言って、向坂は自嘲するような陰のある笑みを浮かべた。
「どがんしたと?」
「いや、俺らしくないなって思って。夕べ、志村に夜の福岡を見に行こうぜって誘われても、まったくその気にならなかったのに」
「男友だちと比べられたら、女の子のアタシの立場がないっちゃけど?」
 向坂はポカンと口を開けた。しかし、すぐに今度はやわらかい微笑に変わった。この男がこんな顔で笑えるのは少し意外だった。
「そうだね。悪かった」
「別に謝るほどのことやなかよ」
 アタシたちはスツールを下りた。
 誘ったのだからここは奢るつもりだったけど、アタシが勘定を頼むと同時に向坂は財布を引っ張り出していた。まあ、アタシたち世代なら男女で割り勘もアリだろう。決して安い酒ではないメーカーズ・マーク四杯分にしては少ない金額を半分ずつ支払い、マスターの軽い目配せには向坂に気づかれないようにそっと微笑を返した。
「じゃあ、行こっか。――マスター、ご馳走さま!!」
「ご馳走さまでした」
「いってらっしゃいませ」
 マスターはおそらく何十年も繰り返してきた滑らかな動作で恭しく頭を下げて、アタシたちを送り出した。
 

2008.12.10 「Change the world」第21章
 
 アタシたちは西中洲から国体道路に出て中洲方面に歩いていた。由真の中学のときの先輩が働いているガールズ・バーが中洲に支店を出して、そこでチーフを任されているというので顔を出してみることになったのだ。
「へえ、あれが屋台か」
 春吉橋に差し掛かったところで、向坂が道向かいを眺めて呟いた。
 国体道路から清流公園に折れる路地沿いには博多名物の屋台が多く集まっていて、煌々と照らされた那珂川沿いの遊歩道に十数軒が軒を連ねている。入りきらない客のために舗道の反対側や隣の屋台との間にテーブルを置いている店もある。
「この辺の屋台のお客さんの大半は観光客って話やけどね」
「地元の人は屋台には行かないの?」
「そういうわけやないけど、もうちょっと街中とか、職場のそばとかに行くらしかよ。やけん、この辺のは値段がぜんぜん違うとよね」
「へえ。――それにしても、すごいロケーションだな」
 向坂が苦笑いを浮かべたのは、舗道の先にキャナルシティがあるからではない。屋台の並びの背後に広がるのが有名な中洲の南新地――要するにソープランド街だからだ。
「そがんよねぇ。ここ、国体道路からキャナルに行くときの近道やけど、はっきり言うて気まずかもん。お店の人とかと目が合うたら特に」
「お互いにそうだろうね」
 一説によれば、キャナルシティが建物の中から周囲が見えない閉鎖的な構造なのは目の前に南新地があるからだと言う。
 由真の先輩の店は中洲四丁目の川沿いのビルという話だったので、春吉橋を渡ってすぐに南新地と反対側に折れて川沿いを歩いた。
 中洲を南北に貫く中洲大通りはともかく、それ以外の路地は歓楽街という割にはけばけばしくもなければ明るくもない。ネオンや看板の人工的な灯りが真っ暗な中に浮かんで見える風景は迷路を連想させるほどだ。中洲はその名の通り那珂川の中州なので大した広さではないが、細い路地が入り組んでいるので不案内な人間にとっては文字通りのラビリンスだろう。
「――あれっ!?」
 向坂が唐突に素っ頓狂な声をあげた。
「どがんかした?」
「後ろの連中、どこ行ったんだ?」
「へっ?」
 アタシも向坂につられて振り返った。そこにいるはずの女子四人と男子一人の姿がない。
「どこかではぐれたのかな?」
「……かもね」
 春吉橋を曲がってすぐのところに、川沿いの遊歩道と中洲の真ん中のほうへ入っていく路地の分かれ目がある。先に行くアタシと向坂に気づかれないように道を違えたとしたらそこだ。
 しかし、まあ、やってくれる。
 伊達に長い付き合いではないので、由真が何か巧んでいることには料亭を出るときから感づいていた。ただ、まさか、ここまで早いタイミングで仕掛けてくるとは思っていなかった。しかも、こんな露骨な手で。
 念のために由真の携帯電話を鳴らしてみたが、予想した通りに<おかけになった電話は電波の届かないところにあるか――>というメッセージを聞かされただけだった。志村の携帯も同じ。すでに篭絡された後だった。
「でも、彼女たちもそのバーに来るんだろ?」
「たぶん、バーの存在そのものがデマ」
 即答したアタシに向坂が唖然とした顔を向ける。
「……一つ訊くんだけど、真奈ちゃんとあの子って友だちじゃないのかい?」
「ときどき、自信がなくなるとやけどね」
 ふと思いついて、ポシェットに手を突っ込んだ。
 このポシェットは、由真が「真奈は可愛いと持っとらんけん、これ貸してあげる」と言って差し出したものだ。つまり、何か仕掛けてあると考えたほうがいい。
 底敷の下からは案の定、ジッポを縦に二つ並べたくらいのプラスチック製のケースに短めのボールペンを括りつけたような器械が出てきた。怪訝そうな表情で向坂がアタシの手元を覗き込む。
「何だい、それ?」
「GPS発信器。PHSを改造して作ったもんなんやけど」
「何でそんなものを……」
 絶句する気持ちはとてもよく分かる。アタシもそうしたいからだ。
 アタシの手の中にあるこれは由真のお手製で、簡単に言えばGPS機能付きのPHSから通話機能を取り除いてアンテナを増設したものだ。一〇分程度に一度、位置情報をメールで由真が持ち歩いているノートパソコンに送信するようになっている。キャベツの千切りが短冊どころか乱切りになるほど不器用なくせに、あの悪魔はこういう工作だけは得意なのだ。
 さて、どうしたものか。
 持ち歩くのは論外だが、見た限りでは器械を壊さずに電池を抜くのは無理そうだった。見た目よりも高価なものなので捨てていくわけにもいかない。そうしても非難される謂れはないはずだけど、目論見が潰えてむくれる由真にそんな理屈が通じるわけがないからだ。埋め合わせをカラダで払わされてはたまらない。
 となれば、選択肢は一つしかなかった。
 来た道を戻って由真たちが折れたであろう路地のほうへ歩いた。彼女たちはおそらく中洲大通りに出たはずだけど、アタシたちはそのまま真っ直ぐ中洲を横断して上川端のアーケードに繋がる橋の袂に出た。そこからまた川沿いの道を進んだ。
「どこに行くんだ?」
「これを預けられるとこ。知り合いの店なんやけどね」
 那珂川は中洲によって一時的に二つに分かれるが、上川端商店街との間を流れる細いほうの一キロにも満たない部分にだけ博多川という名前がある。アタシはその川沿いに建つ雑居ビルの前で足を止めた。箱型の古びた看板に古くさい書体で<PIANISSIMO>の文字が踊っている。
「ここは?」
「言うたろ、知り合いの店に行くって。ちょっと寄ってこ」
 階段を降りて、地下のバーのドアを開けた。
「こんばんわぁ……」
 鈍いカウベルの音が狭い店内に響く。
 薄暗い店の奥にスツールが八脚ほどのバーカウンターがあって、天井から落ちるピンスポットの中で削りすぎた木彫りの人形を思わせる老齢のマスターが黙々とグラスを磨いていた。春先になろうとしているのに痩せた身体を包んでいるのは冬物のメスジャケットだ。まあ、この人は一年中こんな格好をしているが。
 まだ九時前で客の姿はなかった。口開けを待つように現れる常連が一人いるだけで、あとは深夜にならないとこの店は賑わない。
「おや、珍しかお客さんやね」
 マスターが言った。
「そがんことなかろ。一ヶ月前に来たとやけん」
「そうやったかな。このところ、物忘れが激しゅうていかんね」
「嘘ばっかり」
 アタシはこの人が物忘れをしたのを見たことがない。どんな昔のどんな些細なことでも一度話したことに触れるとすぐに返事が返ってくる。
 マスターがしらばっくれている理由にはすぐ思い至った。アタシが前の彼と別れたその夜、ここに来てジントニックを三、四杯ほどやっつけながら泣いたからだ。
「後ろの彼はお連れさん?」
 マスターはアタシの背後に目をやった。
「東京から来とる友だち。飲ませてもらってもよか?」
「構わんよ。入らんね」
「だってさ」
 向坂を店内に引き込んだ。無理やりスツールに腰掛けさせると、マスターが何にするかと訊いてきた。向坂の表情が露骨に曇った。
「俺、カクテルなんか知らないよ」
「別にカクテルやなくてもよかよ。好きなのにすれば。マスター、アタシはメーカーズ・マークの水割り」
「じゃあ、俺も同じものを」
 マスターが赤い封蝋の施されたボトルを手にした。マドラーが音もなく回り、やがて、淡い琥珀色の液体が入ったオールドファッションド・グラスがアタシと向坂の前に置かれた。
「乾杯」
「ああ、乾杯」
 グラスの縁を軽く触れ合う程度に合わせて、メーカーズ・マークを口に運んだ。れっきとしたバーボンなのにまったくバーボンらしくない華やかな味はアタシの最近のお気に入りだ。
「んー、美味しいっ!!」
「……ホント、好きなんだな」
 向坂は呆れ顔で言った。そう言う彼も苦もなくアルコールを身体に入れているが、どこか、不味い水道水を飲んでいるようなところもある。
「お酒、嫌いなん?」
「味がどうとかじゃないけどね。あんまりいい思い出がないんだ。――いや、悪い。こういう店でする話じゃないな」
「別によかよ。アタシとマスターしかおらんとやけん。ねえ?」
 マスターに同意を求めた。マスターは控えめな微笑を浮かべて恭しい会釈で答えた。
「ねえ、聞かせてよ。よかろ?」
「……真奈ちゃん、酔ってるだろ。さっきの店で飲みすぎたんじゃないのか?」
「ふん、誰のせいねって」
 向坂の澄ました顔を睨んだ。
「女の子に囲まれてデレデレして、アタシのこととか忘れとったろ?」
「誰もデレデレなんかしてないだろ」
「うっそ、しとった」
「してないよ」
「いーや、ぜったいしとった!!」
 しばらく向坂に絡んだ。我ながら酒癖だけは良いと思っていたし、今も頭の中のどこかで懸命にブレーキ・レバーを引っ張っていた。
 けれど、止めることはできなかった。
「俺は断じてデレデレなんかしてない」
「まー、しょうがなかね。そういうことにしとっちゃるよ」
「……そうしてもらえるとありがたいね」
 言い合いに疲れて皮肉っぽく口許を歪める向坂は、おかしな話だけど、これまで見た中で一番表情豊かな感じに見えた。
 

2008.12.10 「Change the world」第20章
 
 それからアタシたちは彼女たちと合流して、スターバックスで軽く顔合わせをした。
 由真はともかく、口さがない三人組と二人を合わせるのはこの期に及んでも気が進まなかったのだけれど、二人とも彼女たちの合格点(何の点数だかよく分からないが……)に達していたらしく、その場は本当に合コンのような盛り上がりだった。
 しばらくスタバで話してから、アタシたちは千明の親が経営している西中洲の店に移動することになった。
「ちょっと待って。千明んちって……嘘やろ?」
「嘘やなかよ。ちゃーんとお座敷が予約してあるけん」
「マジでッ!?」
 事も無げにのたまう由真に向かって、アタシが普段は言わないようなことを叫んでしまったのにはもちろん理由がある。その店は昔ながらの博多風の水炊きを食べさせてくれる割烹料亭で、アタシたちが気軽に足を運べるようなところではないからだ。
(アタシ、あがんとこ払いきらんよ!?)
 一行の最後尾を並んで歩きながら由真に囁いた。
(そがんと心配せんでよかって。とりあえず、あたしが出しとくけん)
(とりあえずって?)
(そのうち、真奈に身体で返してもらうってこと)
(……なんね、カラダでって)
(それはヒ・ミ・ツ)
 由真の邪悪な視線に背筋が凍りつくのを覚えたが、そこまでセッティングしてあるのを今さら反故にするわけにもいかない。
(アタシ、ぜったい払わんけんね?)
(別によかよ。無理やり取り立てるけん)
 悪質なサラ金業者のようなことを平気でのたまう横顔を呆然と見つめながら、どうして自分がこの悪魔と親友付き合いをしているのか、首を捻らずにはいられなかった。
 とはいえ、さすがに本格的な料亭の看板料理だけあって、出された水炊きの白濁したスープの味一つとってもアタシが家で作れるようなレベルのシロモノではなかった。二人の――特にこういう場ではいかにも遠慮しそうな向坂の――箸がハイペースで進んでいるのを見ると、由真の店選びが間違ってなかったのは事実だと言わざるを得ない。アタシも横目で睨んでくる由真の視線を無視して活発に箸を動かした。
 ただし、本来なら和やかなはずのこの場で、アタシは近年なかったほどの不機嫌に襲われることになったのだけど。
 
「……真奈、どうしたと?」
 トイレと言って中座しておきながら、廊下にあった椅子で休憩しているところに由真が声をかけてきた。
「……ん?」
「酔ったと?」
 正真正銘の高校生であるにも関わらず、アタシたちはこういう場では平気でアルコールに走ってしまう。イケナイことをしている自覚がないことはないが、そこはそれ、誰しも逆らえない誘惑というものはあるのだ。
「ちょっとね。飲み過ぎたかな」
「かな、やなくて間違いなく飲み過ぎ。いくらビールやけんって、あんだけ一人で飲んだらいくら真奈でも酔っ払うよ」
「しょうがないやん。他にすることないとやけん」
「えー、なんで?」
 ……おまえがそれを訊くか。
 総勢七人もいながらアタシが一人酒――比喩ではなく本当にビールを手酌で飲んでいる――なんかしているのは、これまた比喩でも何でもなく、アタシが一人でほったらかされているからだ。
 だいたい、スターバックスで話しているときからおかしかったのだ。
 志村が三人組と話したがらない理由は何となく分かっていた。女慣れしてないわけではないだろうけど、おそらく年上趣味とかそんな理由で同年代の女の子にあまり興味がないのだ。そして、女子というのは男のそういう態度には敏感に反応する。
 その当然の帰結として、彼女たちの興味は向坂に一点集中されることになってしまった。
 客観的に見て向坂には落ち着いた年上っぽさがあるし、多少遠慮がなくても許してくれそうな雰囲気がある。見た目だって決して悪くない。得意ではないにしても如才なく会話もできる。そして何より、あからさまにイジり甲斐がありそうな隙が見え隠れしている。
 こう言っては何だけど、彼女たちのようなコンパ慣れした女子にとって、向坂はこういう席でオモチャにするには一番面白いタイプなのだ。現にこうしている今も、向坂は女子三人に完全に囲まれて慣れないトークに悪戦苦闘しているはずだった。
 まあ、それは仕方のないことかもしれない。三人組が来ると分かった時点でアタシも何となく予想していたことだからだ。
 問題はあとの二人だった。仕方がないので志村と話そうと思ったら、こいつが由真に完全に参ってしまってアタシのほうなど向こうともしないのだ。まあ、由真を相手にして単純な志村がそうなるのは無理からぬことではあるが。由真も普段は絶対に相手にしないタイプなのにやたら盛り上がっていた。
 そういうわけで、アタシは完全に一人であぶれてしまった。その憤りをエビスにぶつけたって文句を言われる筋合いはないはずだ。
「なんね、そがんことやったら言えばいいとに」
 由真はいかにも可笑しそうに笑う。
 そう言われてもアタシはふて腐れるしかない。我ながら心が狭いと思うが、こっちから話の輪に入っていくのは癪に障った。
「別にどがんでも良かよ。アタシはあの二人が楽しんでくれたら、それでいいとやけん」
「おや?」
「……なんね?」
 由真が隣に腰を下ろした。身体を曲げて仰ぎ見るようにアタシの顔を覗き込んでくる。
「ねぇ、真奈。向坂くんのこと、好きなん?」
「へっ!?」
「図星?」
「あんた、何、バカなこと言いよるとねって。好きとか好かんとか、そがんわけなかろーもん」
 ところが、そんなアタシを見て由真の笑みが深くなった。
「ふーん、やっぱりねぇ」
「何がやっぱりねって。そがんことなかよ。だいたい、昨日会うたばかりなんに」
「恋するとに時間は関係ないやん。一目惚れとかあるやろ?」
「アホくさ」
 実はアタシ自身、向坂が気になるのはそういう理由ではないかと思わなかったわけではない。
 しかし、何故か”そうではない”と言い切ることがアタシにはできた。
 それほど経験豊富なわけではないけど、アタシだって恋をしたことくらいある。別れたばかりの元彼。三浦亮太。人の心を見透かしたようなことばかり言ういけ好かない優男。シチュエーションはそれぞれに違うけれど、特有の甘苦しい想いを抱えていたのはいずれのときも同じだった。
 向坂永一に対してはそれがなかった。
 シンパシーは感じる――それも、かつてないほど強く。彼の乏しい表情のわずかな変化が気になるのも事実だ。だから、アタシは彼を傷つけたくなくて安斎啓子の手紙を隠した。したり顔で嘘を並べ立てた。
 けれど、それが”好き”という感情とは思えなかった。
「――さて、と。そろそろ戻ろうかな」
 話を断ち切るように立ち上がった。
「まだ飲むと?」
「ううん、もうよか。――それより、この後はどがんすると?」
 自分の声にかすかな苛立ちを感じた。
 アタシと由真、それにあの二人だったら、食事の後にどこに遊びに行くかについてアタシの意見が通る可能性はある。けれど、あの三人が来た時点でそれを決める権利はアタシの手にはない。今までそれに疑問を感じたことはなかったのに、今日はどことなく不快だった。
「どこか、真奈が行きたかとこは?」
「特にないけど」
「そう。やったらこっちで決めるけん、着いてこんといけんよ?」
「……来るよ、ちゃんと。何でそがんこと言うと?」
「ううん、別に」
 由真はいつものように屈託なく笑った。けれど、その表情に何か予感めいたものを感じた。
 

2008.12.10 「Change the world」第19章
 
 二人との待ち合わせの場所はキャナルシティのシアタービルの二階にあるHMVの前だった。キャナルシティの入口は幾つかあるけど、アタシは<近くまで来てるけど迷った>とSOSを送ってきた志村に上川端商店街から国体道路を渡る陸橋を教えていた。
 その商店街側の入口も実はちょっと分かりにくいところにあるけど、誰かしら通っている道なのでそれについていけば何とかなると思ったのだ。最悪、その辺の人に訊けば辿り着けるはずだし、陸橋からだとHMVはキャナルの建物に入ってすぐのところにある。
 アタシがHMV前に着いたときには志村はすでに店の前にいた。向坂の姿は見当たらない。
「どーしたんだ、おまえ?」
 志村はアタシの姿を見るなり、火をつけずに咥えていたタバコを取り落としそうになった。
「何が?」
「いや、さっきとはえらくイメージが違うなって思ってさ」
「そう?」
 とぼけてみたけど、ハッキリ言って確信犯だった。
 昼間のウェスタン調とは打って変わって、今のアタシは――待たせている三人組が思わず絶句したほど――ガーリーに仕上がっていた。春らしいカナリア色のワンピースにオフホワイトのニットカーディガン、黒のタイツとダークブラウンのショートブーツ。手にはキャンバス地のポシェット。セミロングの髪に生まれて初めてヘアアイロンというやつを当てて緩やかなロールをつけている。頭にベレー帽を乗せるのだけはさんざん迷って、あまり似合わないという理由で諦めた。
 自分ではうまくできないのでメイクは由真にやってもらっている。これまた生まれて初めてビューラーで睫毛をカールさせたら、普段のキツい目つきが多少はやわらかくなったのには驚いた。小学生のときからこっそりメイクをしていたという由真のテクニックもあって、メイクを施したアタシはむしろ普段よりもあどけなくさえ見えた。
「似合わんかな?」
 アタシが訊くと、何故か志村は急にそっぽを向いた。
「そんなことねぇよ。俺は――」
 その後は口の中でゴニョゴニョ呟いただけなので、何を言ったのかは分からなかった。
「ところで、向坂くんは?」
 志村はHMVの店内を指差した。
「欲しいCDがあるんだとさ」
「へえ。ところで志村、あんたも人のこと言えんっちゃないと?」
 昼間は不良モノのマンガに出てくるような格好だったくせに、今はブラウンのコーデュロイのジャケットにダークグリーンのタートルネックのニット、ベージュのコットンパンツという小ざっぱりした出で立ちだった。襟元や手首に鈴なりになっていたシルバーのアクセサリの姿もない。
「俺はそのままでいいって言ったのに、永が着替えろってうるさくてさ。しょうがないから、ホテルの人に訊いて近くのユニクロに行ったんだ」
「ふうん。でも、似合っとうよ」
「……サンキュ」
 館内は喫煙スペース以外は禁煙なので、志村は外でタバコを吸ってくると言った。アタシは向坂を捜してくると言って店内を指差した。
 向坂は洋楽ロックの棚の前にいた。
「何見ようと?」
「えっ――ああ、真奈ちゃんか」
 アタシが声をかけると、向坂は曖昧な笑みを浮かべて振り返った。
 彼も家出少年ルックとはずいぶん違っていた。大きめの格子柄のネイヴィー・ブルーのネルシャツに白いフリースジャケット、細身のストレートのデニム。靴もコンヴァースのハイカットに履き替えている。カジュアルな着こなしが似合うイメージはなかったけどバランスは悪くなかった。痩せているなりに均整の取れた体格なのだろう。が、しかし――
 驚きとちょっとの笑いを何とか押し隠した。それには気づかず向坂は話を続けた。
「いや、車の中でエリック・クラプトンのことを話しただろ。それで思い出したことがあってさ。実はこの人の曲で一つだけ好きなのがあるんだ」
「へぇ、何ていう曲?」
「それが分からないんだ」
 なんだそりゃ。
 声に出さずにつっこんではみたものの、世の中には気に入っている歌でもタイトルを覚えていない人は意外と多い。ちなみにアタシはタイトルからアーティスト名、収録アルバムまで全てセットで覚える。
「サビのところの歌詞は何となく覚えてるんだけどね。こうやってCDジャケットを見てれば、思い出せるかなって思ったんだけど」
「うーん……。どがん曲やったか、思い出せん?」
「映画の主題歌じゃなかったかな。ゆったりした感じのバラードなのは間違いない。でも、肝心の曲名がね……」
 脳裏にクラプトンの曲のリストが浮かんだ。その中から一つを選ぶ。該当するのはおそらくこれだけだし、間違っていないことには確信があった。
「それ、こがん歌やない? ”If I can change the world,I'll be the sunlight in your universe ”」
 向坂はこっちがびっくりするほど眼を見開いた。
「……それだ。すごいな、どうして分かったんだ!?」
「クラプトンが曲を提供しとる映画ってそがん多くないとよ。<チェンジ・ザ・ワールド>。使われとったんは<フェノミナン>って映画。ジョン・トラボルタが出とったけど、見た?」
「いや、映画は見てない。聴いたのはたぶんエフエムだと思う。――でも、真奈ちゃんってホントに洋楽好きなんだな」
「ん?」
「だってそうだろ。普通はあれだけのヒントで曲名まで言い当てられないよ」
「たまたま知っとっただけやけどね。まあ、好きなんはホント――って言うても、大半は父親の影響なんやけどさ」
「お父さんの?」
「うん。ほら、秋月でアタシが父親のデュエットの相手させられよった話、したやろ? あの人、ぜんぜん顔に似合わんっちゃけど洋楽大好きやったとよね。アタシの持っとるCDの半分以上はあの人のモンやし」
 向坂が肯く。その顔に何故か戸惑ったような色が浮かんでいる。
「どがんかした?」
「……いや、なんでもない」
 向坂はクラプトンのベスト盤を手にレジに並んだ。手荷物になるのにと思ったけど、フリースジャケットのポケットは大きくてCDくらいはすっぽり収まった。
 HMVを出て志村を呼びに外へ出た。ところが、タバコを吸っているはずの姿はなかった。
「どこ行ったとかな」
「その辺をちょっとウロウロしてるだけだろ。ここで待ってれば帰ってくるよ」
 外階段の欄干に背中を預けて、向坂は買ったばかりのCDのパッケージを破った。気難しそうな顔をしたクラプトン――まあ、大体いつもそうだが――が写ったライナーノートを取り出して歌詞を眺め始める。することもないのでアタシも隣で彼の手元を覗き込んだ。もちろん、字が小さすぎて読めやしないけど。
 しばらく小さな字を追っていた向坂の目が訝しげに細まった。
「うーん、変な歌詞だなぁ」
「えっ?」
「なんていうのかな、時制がよく分からないんだ」
 言わんとする意味がつかめなかったので、アタシは彼の手からライナーノートを受け取った。
「どこ?」
「サビのとこ」

 If I can change the world
 I'll be the sunlight in your universe
 You would think my love was really something good
 Baby if I could change the world

「”If I can change the world ”は”もし、僕が世の中を変えることができるなら”だろ。その後は――」
「”君の世界を照らす太陽になる”やけど、それが?」
「いや、どうしてその後は”Baby,If I can ”じゃなくて”If I could ”なのかなって」
 ああ、そういうことか。
 向坂が変だと言っているのは、同じ視点のはずの曲の中で現在形と過去形が入り混じって使われていることだ。確かに、これを学校文法で捉えると違和感を感じるだろう。
「これね、時制の話やないとよ。なんていうとかな、丁寧な言い回しのときとか、そうやないなら現実離れしとることとか、あり得んのを自分でも分かっとうってニュアンスのときに過去形を使うことがあるったいね。日本語に訳すといまいち分かりにくいとやけど」
 リフレインの”Baby,If I could change the world ”を強いて訳すなら”ベイビー、もし、僕に世の中を変えられたなら”とでも言い換えて、それが叶わぬ夢であることを表現するしかない。
「真奈ちゃんって英語、得意なんだ?」
 向坂は感心したようにアタシを見た。慌てて手を振って否定した。
「これも父親の受け売り。あの人、何でか知らんけど英語話せたとよね。それにだいたい、英語強かったら英語学科に落ちたりせんよ」
 アタシが大学の前期で落ちて後期の発表待ちなことは雑談の中で話していた。
「向坂くんは大学は?」
「推薦で去年のうちに。そんなに有名なとこじゃないけど」
「良かねぇ。アタシ、バカやけん、推薦の”す”の字もお声掛からんかったよ」
「バカ?」
 向坂は鸚鵡返しのように訊いてきた。
「そんなに大勢知ってるわけじゃないけど、真奈ちゃんくらい頭の良い女の子は初めて見たけどな」
「……なんね、褒め殺し?」
「そうじゃない。本当の話さ」
 アタシを面と向かってバカ呼ばわりする命知らずは祖父母と由真くらいしかいないけれど、だからと言って、ここまで意外そうな顔をされることも滅多にない。
 しかし、この話は掘り下げると照れるしかなくなる。なので、話題を変えた。
「ところで、志村は大学はどうなん?」
「ああ、それが俺にもまったく教えてくれないんだ。どうするつもりなんだか」
「アタシの勘やと、おそらくアメリカかどこかの名前書いただけで入れる大学に留学して、あっちで知り合うた日本人の友だちといろいろ悪さして、最後はFBIに逮捕されるんやないかって気がするとやけど」
「――聞こえてるぞ、真奈」
 背後から地を這うような低音の苦情が襲い掛かってきた。振り返ると志村は顔を思いっきりしかめながら、タバコの吸殻を空き缶に押し込んでいる最中だった。
「あら、あんたおったと?」
「気づいてて話振ったくせに、何言ってやがる」
 バレちゃ仕方ない。話に割り込むタイミングを見計らっているらしいのを目の隅で捉えていたのは事実だ。
「で、大学はどうなん?」
「おまえに心配される謂れはねえよ。受けるところはちゃんと決まってる」
「行くところやないとね!?」
 思わず吹き出した。他人のことは言えないが三月も半ばだぞ。
「いいんだよ、とりあえずどこか滑り込んどきゃ。社会に出ちまえば学歴なんか関係ねえし。ウチのクソ親父なんか中卒のくせに、大卒の連中をアゴで使ってるよ」
「ほう、志村。おまえ、親父さんのことを尊敬してたのか」
「尊敬なんかするわけねぇだろ。ただ、見本にはなるってだけだ」
「何が違うとかな」
 アタシが笑うと、向坂もつられたように笑みを浮かべた。志村はしばらく顔を真っ赤にして言葉を探していたが、やがて、憤然とした表情で「友だち待たせてんだろ? さっさと行くぞ!!」と怒鳴ると、アタシたちを待たずに肩を怒らせてズンズンと歩いていく。
「……どこで待ち合わせしとうとか、知らんくせに」
 笑いをこらえて呟いた。迷子になるまで放っておいても面白いかなと思ったけど、そういうわけにもいかない。そろそろ待たせている由真たちがしびれを切らす頃だからだ。
「俺たちも行こうか」
「そうやね。――あ、そうそう。二人とも着替えとると、向坂くんが言い出したと?」
「いや、違う。志村がどうしても着替えろって言うからホテルの近くのユニクロに寄ったんだ。俺は服のことはさっぱり分からないけど、珍しく志村が「あれがいい、これがいい」なんて言うんであんまり迷わなくて済んだ」
「……ふうん、やっぱりね」
「何が?」
「ううん、何でもない」
 含み笑いを浮かべるアタシを向坂は不思議そうな顔で見ていた。道理で着せられてる感がありありなわけだ。
 


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