『琥珀色の遺言』(別館)

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2008.12.10 「Change the world」第22章
 
「……へえ、そうやったん」
 二杯目の水割りを静かに口に運んだ。
 向坂は奔放な母親が何日も帰ってこなかったり、帰ってきたかと思えばアルコールの匂いをプンプンさせている環境で育ったことを話してくれた。自分が出かけている間、向坂が飢え死にしたりしないようにお金を置いたり食べ物を用意していったというからネグレクト(育児放棄)とは言い切れないが、何が違うのかといわれればよく分からない。
「小学生のときにダブったのも、母親がトラブルを起こしてはすぐに住むところを変えるせいで、学校に通えなくなったからなんだよ」
「転校は?」
「住民票そのものが動いてないんだ。そんなこと、できるはずないだろ」
「そうなんやろうけど……」
「まあ、そのうちに知り合いが手を回してくれて、何とか一年遅れくらいで学校に通えるようにはなったんだけどね」
「ふうん。――でも、そんな子供やったとにすごかね」
 向坂は意外そうにアタシを見た。
「何が?」
「だって、向坂くんって成績良かっちゃろ? 大学にも推薦で入れたくらいやし」
「大したことはないよ。たまたま運が良かっただけさ。それに――」
 向坂はそこで言いよどんだ。
「それに?」
「学校にはまともに通えなかったけど、勉強を教えてくれた人はいるんだ。読み書きも満足にできなかった俺に字を教えてくれたし、本やいろんな事柄に興味を持つことを教えてくれた。後になって勉強するのが苦にならなかったのは、何かを学ぶのは本当はとっても楽しいことなんだって、そいつが教えてくれてたからかもしれない」
 不思議な声音だった。懐かしいものを語るような温かさがあるのは当然に思えたが、同時につらいことを語る苦さが混じっているように聞こえたからだ。だからだろう、アタシはその人が今どうしているのか、訊くことができなかった。
「大切な人なんやね」
「……たぶんね」
 向坂は半分ほどになっていたグラスを一息に空けた。
「不思議だな」
「何が?」
「こんなこと、今まで誰にも話したことがなかったんだ。親や祖母さんはもちろんだけど、世話になったことのある誰にも。もちろん、志村にだって話したことがない」
「そうなん?」
「ああ。どうしてだろう。真奈ちゃんって、他人からいろいろ話し易いって言われるかい?」
「逆のことなら、数えきれんくらい言われたことあるけど。アタシばっかり言いよるけど、向坂くんこそ酔っとるっちゃないと?」
 向坂は目を瞬かせた。けれど、何かを想うように目を伏せると静かに息をついた。
「……そうかもしれないな」
 二杯目の水割りを受け取ると、向坂はとりとめもなく自分や家族のことを話し始めた。他人のアタシに言うようなことではない母親の不品行や、詐欺師紛いの仕事をする父親の堕落っぷりが出てきたときはさすがに止めようとしたけど、向坂は「祖母さんと親父の間のことを知られているのに、これ以上隠し立てしても意味ないだろ?」と気にも留めなかった。
 おかげで三〇分後には、アタシは向坂の幼少期から今に至るまでの履歴書が書ける程度には彼の経歴に詳しくなっていた。もちろん、安斎啓子の手紙の後書きで大まかなことを知っているからではあったが。
 中でも向坂が中学に上がってすぐ、母親の恋人の妻からとばっちりのようなシチュエーションで脇腹をナイフで刺され、それが祖母の家に引き取られることになった理由という話は衝撃的だった。出来事そのものよりショックだったのは、それを何でもなかったことのように淡々と語る向坂の表情のほうだったが。
 他にも、向坂は志村との出会ったときのことを話してくれた。
 それによると、今よりもずっと小さかった志村がリンチに遭っている現場にたまたま向坂が通りかかったのが馴れ初めらしい。さっきの刺された話や留年している事実が曲解されて”ナイフで傷害事件を起こした少年院帰りの危ない人”だと誤解されていたのが逆に幸いして加害者の不良少年たちが逃げてしまい、結果として彼が志村を助けた形になったのだそうだ。同じように曲解されたレッテルに脅える志村に向坂がかけた「刺してない、刺されたけど」という台詞には、申し訳ないけど吹き出さずにはいられなかった。
 もっとも、傲岸な父親とそれに盲目的に従順な母親に反発していて今よりもっと拗ねたガキだった志村は、最初の頃は向坂を全く受け入れようとしなかったという。
「らしかねぇ、あの男。それであがん、ひねくれた目しとるったいね」
「まあね。でも、あれでも――って言っちゃなんだけど、いい奴なんだ。俺の友だちには勿体ないくらいにね」
「ふうん……」
 話はそれからもしばらく続いた。
 けれど、それらの話にはさっきの”大切な人”は欠片ほども出てこなかったし、向坂は彼の祖母が手紙で触れていた去年の秋の大怪我とその原因についても触れなかった。訊こうにも手紙については<アラジン>や<ア・ホール・ニュー・ワールド>に関する記述を拾い読みしたような話にしてしまっているので、迂闊なことは言えない。
 それでも、彼がまとっている薄いヴェールのような影の正体は感じられた。
「……なんて言うか、人生、波乱万丈って感じやね」
 向坂はちょっと皮肉な笑みを浮かべた。
「そうでもないさ。テレビのニュースを見ればいい。俺よりひどい環境で育ってる子供が幾らでもいるよ」
「それはそうやろうけど。でも、他人から見れば他と違わんかっても、その人にとってはそれが全てなわけやん? それでグレてないとやけん、やっぱりすごかと思う」
「お褒めにあずかり光栄だね。――ところで、あれはあんなとこに置いといて大丈夫なのかい?」
 向坂は天井を指差した。地下へ降りる階段の脇に隠してきたGPS発信器のことだろう。
「たぶんね。ここに持ち込むわけにはいかんけん、外に置いとるとやけど」
「……?」
「GPSは衛星の電波が届かん地下じゃ使えんとよ。あそこやったら位置も測定されるし、由真のところにもメールが行きよるはず」
「へえ。だったら、置きっぱなしにしておけば、俺たちは何処へ行ってもここにいることになるわけか」
「そういうこと。――なん、これから行きたか場所とかあると?」
「いや、そういうことじゃないけどね。だいたい、福岡の何処に何があるかも知らないし」
「ガイドブックとか見らんかったと?」
「志村が持ってた雑誌は暇つぶしに読んだけど、俺は観光に来たわけじゃないから。福岡に関して知ってることって言えば、中洲がこっちで一番大きな歓楽街だってことと、あとはとんこつラーメンと辛子明太子の本場ってことくらいかな」
「うっわ、ステレオタイプ」
「しょうがないだろ。あ、でも、こっちに親不孝通りって通りがあるのは知ってる」
「……なんで?」
「そういうタイトルの小説を読んだことがあるんだ。ぜんぜん面白くなかったけど」
「へぇ」
 そんなものがあるとは知らなかった。まあ、アタシは文学部を受験するのがおこがましいほど本を読まない人間ではあるが。
「行ってみるね?」
「そうだな。せっかくだし」
 そう言って、向坂は自嘲するような陰のある笑みを浮かべた。
「どがんしたと?」
「いや、俺らしくないなって思って。夕べ、志村に夜の福岡を見に行こうぜって誘われても、まったくその気にならなかったのに」
「男友だちと比べられたら、女の子のアタシの立場がないっちゃけど?」
 向坂はポカンと口を開けた。しかし、すぐに今度はやわらかい微笑に変わった。この男がこんな顔で笑えるのは少し意外だった。
「そうだね。悪かった」
「別に謝るほどのことやなかよ」
 アタシたちはスツールを下りた。
 誘ったのだからここは奢るつもりだったけど、アタシが勘定を頼むと同時に向坂は財布を引っ張り出していた。まあ、アタシたち世代なら男女で割り勘もアリだろう。決して安い酒ではないメーカーズ・マーク四杯分にしては少ない金額を半分ずつ支払い、マスターの軽い目配せには向坂に気づかれないようにそっと微笑を返した。
「じゃあ、行こっか。――マスター、ご馳走さま!!」
「ご馳走さまでした」
「いってらっしゃいませ」
 マスターはおそらく何十年も繰り返してきた滑らかな動作で恭しく頭を下げて、アタシたちを送り出した。
 
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